2018年1月29日月曜日

「正しく絶望すること」について(2018.1.29)

これと似たことを言ったのは、ミスター100ミリシーベルトの異名を取る山下俊一氏です。
放射線「正しく恐れよう」 山下俊一長崎大教授が啓発活動2011年4月23日日経新聞

どんなテタラメな人間であっても1つだけは真実を言うことができるという見本ですが(その後、彼は、個別の問題ではこのコトバと間逆のコメントを言い続けたのは周知の通りです)、しかし、「正しく恐れよう」を実行するためには、その前に次のことを実行する必要があります。

「正しく絶望すること」

一方で、私たちの社会は「人々の目をふさぐ張本人が、人々の無知を非難する」(ジョン・ミルトン)。この事態に絶望しないで、彼らの甘言に乗せられていたら永遠に救われない。
他方で、たとえ絶望したとしても、感情に押し流されて絶望したときには、暴力には暴力を掲げるIS(イスラム国)のように、最悪の選択をしてしまうからです。

これを実行したのが広島で被爆した詩人峠三吉です。
彼は、広島・長崎の経験から、人類にこれほどの悲劇をもたらした原子爆弾は二度と使用されることはあるまいと思っていたところ、6年後、トルーマン米大統領らが朝鮮戦争で原子爆弾の使用を検討中というニュースを知り、その愚かさに絶望します。
しかし、彼は単に「絶望した」のではなく、その絶望をくぐり抜け、、「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を書きました()。これを自費出版し、原爆被害を告発しその体験を広めました。彼の精力的な平和運動は、このときの「正しく絶望すること」の上に築かれたものです。

そして、感情に押し流されて「絶望する」のではなく、「正しく絶望する」ためには、「正しく認識すること」が不可欠です。この認識がないまま、感情に押し流されて「絶望」すると、人は、往々にして「認識なき願望」に導かれ、客観的に不可能なことを可能であると思い込み、熱狂的に最悪の選択をしてしまうからです。

そうならないためには、「正しく認識する」努力が不可欠です。けれど、それは決して頭の良し悪しでも能力の問題でもはなく、勇気の問題、愛情の問題です、真実と向き合い、人と向き合おうという。

それについて語った人のひとりが以下の柄谷行人、安富歩です。

「国破れて、末人あり」を超えて》 (柄谷行人)

《 「おかしい」と意識すること、システム全体が狂っていることを認識することが大事》(安富歩)


 () ことば

     ヒロシマから にんげんをかえせ

ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

       峠三吉 原爆詩集『序』    
   
       
        第二部
    
        フクシマから にんげんをかえせ

ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ

フクシマから ちきゅうをかえせ

うみをかえせ やまをかえせ 
そらをかえせ だいちをかえせ
ちきゅうをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる 
にんげんとすべてのいきものをかえせ

にんげんといきものの いのちあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

         読み人知らず    




【経過観察問題のまとめ】被告福島県と甲状腺検査の経過観察問題(2018.1.28)

経過観察問題の最新記事(2018.4.13)は以下の通り。 
 【速報】【経過観察問題(4)】国破れて記憶あり、で症例数を隠ぺいする被告福島県にはこれを開示する説明責任がある(2018.4.13)

福島で子どもたちの健康を脅威にさらした責任を負う者は、ハーグで現在、責任を問われているアフリカやアジアの指導者らと同じ道を歩むべきである」(原告準備書面(5)第5、山下発言問題)

以下は、2017年5月から何度か取り上げてきた福島県甲状腺検査の経過観察問題をまとめたものです。

2017年3月末、NPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」(以下、子ども基金と略称)会見、福島県は県民健康調査の甲状腺検査(その枠組みは末尾の図参照)の二次検査(※1)で「経過観察」とされた子ども(単純合計で)2523人(2017年2月20日現在。その内訳は末尾の図参照)は、その後「悪性ないし悪性疑い」が発見されても、その数を公表していなかった事実、つまり福島県が公表した患者数(2017年3月末時点で190)以外にも未公表の患者がいる※2ことが明らかになりました。

※1)二次検査:超音波による一次検査でのう胞 20.1mm以上/結節 5.1mm以上の判定だった子どもを対象に行なう、詳細な超音波検査、血液検査などの精密検査。 


※2 子ども基金が会見で明らかにした未公表の患者は、福島県の甲状腺検査の二次検査の結果、「経過観察」とされたが、その後、穿刺細胞診で悪性の疑いがあると診断され、2016年、福島県立医大で甲状腺の摘出手術を終えた原発事故当時4歳の男児。

福島県によれば、 巡目(第回目本格検査)の甲状腺検査で「悪性ないし悪性疑い」の判定となった69人のうち実に63名が1巡目(先行検査)で、A判定とされ「経過観察」とされた者です(2017年2月20日検討委員会の資料5頁)。とすれば、A判定とは異なり、もともと精密検査の必要があるとして二次検査を実施した者のうちひとまず「経過観察」となった2,523人の中から、子ども基金が把握する「原発事故当時4歳の男児1名」以外にも悪性腫瘍が発見される可能性がどれほどの数にのぼるのか見当がつきません。

これは極めて重大な問題です低線量被ばくによる子どもたちの健康被害の危険性を問う「子ども脱被ばく裁判」にとっても極めて重要な問題ですので、2017年5月、この裁判の原告は被告福島県に対し、速やかに、その症例数を明らかにするように裁判で主張しました(→その書面)。本来、「県民の健康を守る」ことを使命とする被告福島県にとって、これは当然開示すべき情報だからです。
しかし、被告福島県は、 雨が降ろうが槍が降ろうが、どんなことが起きても、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにすることは決して、ぜったいしないという不退転の決意を示し、現在までその態度を変えていません。
それは被告福島県は「県民の健康を守らない」という不退転の決意を自ら示すものです。
なぜなら、被告福島県は、まず、

①. 福島県は 『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない。

と回答してきました(→その書面)。 そこで、これに対し、原告から次の2つの再質問をしました。

質問1: 
(1)、症例の数の把握について、被告福島県はこれを把握する義務があると考えているのか?
(2)、原告は、福島県にはこの義務があると考え、その根拠を示したので、これに対しても応答せよ。
質問2: 甲状腺検査で「経過観察」となった子どものうち、他の病院はともかく、福島県立医大付属病院で「悪性ないし悪性疑い」が発見された数は福島県は把握しているだろうから、せめてこれだけでも明らかにして欲しい

これに対し、被告福島県は次の回答をしました。

②.(質問1に対し)
(1)、福島県に、症例数を把握する義務はない。 
(2)、福島県は、《福島県に症例数を把握する義務がある》とする原告主張とその根拠を全面的に争う。ただし、福島県にこの義務がないとする根拠を示す必要はない(説明する責任はない) (→その書面5頁下から3行目~6頁

③.(質問2に対し)
福島県は、これを調査し、明らかにする余地はない(→その書面3頁)。

 さらに、原告質問1と一緒に、原告は次の質問をしました。
質問3: 鈴木眞一福島県立医大教授と山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学が提携して進める研究プロジェクト()が上記の症例数を把握しているから、福島県も当然、症例数を把握しているのではないか。

2013年12月頃からスタートした、福島県立医大甲状腺内分泌学講座の主任教授鈴木眞一を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、同がん患者の手術サンプル及び同サンプルから抽出したゲノムDNA、cDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクトのこと。この研究プロジェクトを記載した2つの研究計画書(甲C73同74)や研究成果報告書(甲C75)

これに対し、被告福島県は以下の回答をしました。

福島県と鈴木眞一教授らの研究グループとは別の組織、別の主体であり、福島県はこの研究グループとは何の関わりもない。それゆえ、この研究グループがどんな社会的使命を持ち、どんな目的で、どんな研究をしているか、福島県は知るよしもない。だから、この研究グループが症例数を把握していたとしても、福島県はこれを知るよしもない(→その書面2頁。第1、2)。

以上の回答から、 被告福島県は「県民の健康を守らない」という不退転の決意を示していることが明らかです。これが福島県の姿です。日本は今これほどまでに壊れています。

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この経過観察問題の詳細は、以下を参照。
経過観察問題福島県は、《『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない》と答弁201子ども脱被ばく裁判)->こちら
経過観察問題福島県は、《求釈明の対象を福島県立医大付属病院における症例に限定した場合であっても、被告福島県において本訴訟における求釈明に対する対応として調査し、明らかにする余地はない。答弁20110月1子ども脱被ばく裁判)->こちら
経過観察問題福島県は、《福島県に県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務もなければ、症例数を把握する鈴木眞一教授らの研究プロジェクトとも関わりはない》と答弁(2018年1月22日子ども脱被ばく裁判) ->こちら
関連記事184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も」(Ourplanet-TV 2017.3.20)
               「存在していた!福島医科大甲状腺がんデータベース(Ourplanet-TV 2017.8.30)


 福島県民健康調査の甲状腺検査のスキーム(枠組み)




甲状腺検査の二次検査で「経過観察」とされた者の数

2018年1月28日日曜日

「日本の福島化」:法的クーデタと評される集団的自衛権の行使容認の閣議決定(2014年7月)も原発事故後のどさくさ紛れの法的なクーデタに比べれば屁の河童

「日本の福島化」 その詳細は->こちら

311以後の、秘密保護法の成立、集団的自衛権の行使容認の閣議決定、安保関連法(いわゆる戦争法)の成立、共謀罪の成立‥‥と次から次へと政府の強引な政治運営に対し、
一般市民から、《私たちの社会は、 原発事故後 、 人が助け合えず、力でもって脅かされる、 そんな方向へ向かっている。 》という感想が寄せられ、
学者から、《従来の憲法解釈の変更と称して、集団的自衛権の行使ができる場合があるとした2014年7月1日の閣議決定は法的なクーデタである》(毎日新聞記事)というコメントが寄せられています。

これらは冷静な人なら誰もが眉をしかめるような異常な出来事の連鎖です。しかし、3.11の原発事故の2度目の事故()から見たら、これらはむしろこの事故時の必然の展開なのだと合点が行きます。
日本政府は、平時であれば法治国家として決してできないことを、事故時という緊急事態の中で、様々な政策決定を、超法治国家としてどさくさ紛れにアクロバットとしてやってのけたのであり、原発事故がもたらした政治経済体制の危機を前にして法的なクーデタというルビコン川を渡ったからです。一度、犯罪に手を染めた者にとって、二度目、三度目の犯罪は容易に実行可能に変貌するように、一度、法的なクーデタを犯した政府にとって、二度目、三度目の法的なクーデタは屁の河童である。

その法的なクーデタの典型が原発事故から1ヶ月余りが経過した4月19日、文科省は福島県の学校の放射能安全基準を20倍に引き上げる通知です。その通知の冒頭に書いている通り、文科省の安全基準変更の根拠は、国際放射線防護委員会(ICRP)(※1)の2007年勧告に基づくものです。
 しかし、もともと国際放射線防護委員会(ICRP)は国連の公的な機関ではなく、民間の一団体にとどまります。そうした民間団体の勧告が日本国内で正式に取り入られるためには、日本政府が取り入れるかどうかを審議して正式な決定を経る必要があります。ところで、ICRPの勧告は1990年に公表された勧告が1998年に放射線審議会で審議の末、正式な決定を経て、日本国内に取り入れられました。しかし、文科省が今回の通知で根拠にしている2007年勧告は、2011年4月時点で(現在も同様ですが)、日本国内に取り入れるかどうか審議している最中で、まだ正式な決定に至っていません。従って、このような勧告を国内の法秩序として盛り込むことは法治国家としては許されません。しかし、文科省は法治国家として許されないことを重々承知の上で、日本国内に取り入れられていないICRPの2007年勧告に基づいて通知を出したのです。これは法的クーデタ以外の何物でもありません。

その上、文科省はICRPの2007年勧告に基づいて通知を出したと言いながら、2007年勧告の重要な内容となっている「防護の最適化の原則」(※2)と「正当化の原則」(※3)は今回の通知では無視しました。つまり2007年勧告に基づいたと言いながら、文科省にとって都合のいいところだけツマミ食いしているのです。都合のいいところだけツマミ食いすること自体も法治国家として許されることではありません(以上の詳細は、子ども脱被ばく裁判の原告準備書面29参照)。
第2に、文科省の今回の通知は「安全基準値の引き上げに関する大原則」にも違反します。「安全基準値の引き上げに関する大原則とは、
 「危機管理の基本とは、危機になったときに安全基準を変えてはいけないということです。安全基準を変えていいのは、安全性に関する重大な知見があったときだけ」である(昨年11月25日「第4回低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」での児玉龍彦氏の発言〔21分~〕)
 つまり、
基本原則1: 危機になったときに安全基準を変えてはいけない。
基本原則2:安全基準値の変更が許されるのは、「安全性に関する重大な知見があったときだけ」「安全についての新しい知見が生まれた」(甲120号証。児玉龍彦VS金子勝「放射能から子どもの未来を守る」157頁)ときだけ。
これは、今まで法学者は取り上げてこなかったものですが、人々の命と健康を守るための人権上の大原則を意味します。
  
しかし、文科省の今回の通知は、安全性に関する重大な知見があった」訳ではないことが通知を読めば明らかです。 従って、この点からも文科省の今回の通知は、人権の大原則を踏みにじった重大な人権侵害行為です。 戦後70年近く、民主主義国家・法治国家の一員として歩んできた文科省がこんなアクロバットのような通知を出したことは一度もなかったと思います。 もし裸の王様をわらう子どもが文科省の今回の通知を見たら、この子はどう言うでしょう。きっと、--それは空中四回宙帰りのアクロバットだ。正真正銘の法的なクーデタと呼ばなければ、どう呼んだらいいの?」
 
この311直後の法的クーデタが、その後に秘密保護法、
集団的自衛権行使容認の閣議決定、戦争法、共謀罪‥‥と次から次へと出現する法的なクーデタのパレードの「源泉」となっています。一度、ルビコン川を渡り、法治国家としてタガが外れてしまった日本政府は、政治経済体制の危機を前にして半ば焼けクソで放置国家として邁進中で、容易にあと戻りしないからです。

その結果、非人間的な扱いを受け、いわれのない苦しみの中に置かれて来た最大の被害者は、言うまでもなく、自主避難したか、しないでとどまったかを問わず、汚染地の子どもたちと住民です。
 この事態に対し、私たちは何が必要なのでしょうか。その答えは単純明快です。
311以後、事実の闇と法の闇に覆われた日本社会に再び真実と正義を回復し、光を取り戻すことです。
そのためには、311以後の法の闇の諸悪の「根源」に立ち戻り、この根源を断ち切ることが必要です。そして、その重要な1つがチェルノブイリ法日本版という人権法の制定です。


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※1)国際放射線防護委員会(ICRP)がやってきたことを知るには、以下が有益。
中川保雄著『放射線被曝の歴史』→その目次と「序にかえて」

※2)防護の最適化の原則とは、
《被ばくする可能性,被ばくする人の数,及びその人たちの個人線量の大きさは,すべて,経済的及び社会的な要因を考慮して,合理的に達成できる限り低く保たれるべきである。この原則は,防護のレベルは一般的な事情の下において最善であるべきであり,害を上回る便益の幅を最大にすべきである,ということを意味している。」と説明し、その重要性を強調している》(2007年勧告(203))

※3)正当化の原則とは、
《放射線被ばくの状況を変化させるいかなる決定も、害より便益を大きくすべきである。この原則は、新たな放射線源を導入することにより、現存被ばくを減じる、あるいは潜在被ばくのリスクを減じることによって、それがもたらす損害を相殺するのに十分な個人的あるいは社会的便益を達成すべきである、ということを意味している。》(2007年勧告50頁(203))

「国破れて、末人あり」:福島原発事故後に専門家・研究者はなぜ隠れキリシタンのように沈黙しているのか:それは学問の自由の侵害と繋がっている(2017.12.23)

東京大学「学問の自由」侵害裁判の判決は3月15日午前10時(東京地裁4階411号法廷)詳細->こちら
「国破れて、末人あり」を超えるために:3月3日、東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告柳田辰雄教授の最終講義「私の学融合と学問の自由」。詳細->こちら

福島原発事故の七不思議の1つ。それは「国破れて、末人あり」。原発事故後にも、なお、多くの専門家・研究者たち隠れキリシタンのように沈黙しているのはなぜか?

思うに、彼ら原発事故前からとっくに、学問の自由が奪われている実際は学問の自由が奪われているという侵害の自覚すら感じること出来なくなりお茶を濁し自主規制し、行儀のよい、腑抜け同然の人間、末人直前の人間になり果ててしまっている。だから、あれほどの原発事故の後でも、彼らの習性は変わらなかったではないか。
他方で、先ごろ、京都大学iPS細胞研究所内の助教が行った論文不正について会見し山中伸弥所長はこう語りました「論文不正を防げなかったことに、本当に無力感を感じている」。
世間を騒がせした2014年の「STAP細胞」事件のあともなお、この種の論文不正があとを絶たない根本的な背景には、研究者たちが自分が本当に取り組みたい学問研究と向き合っていないという学問の自由がないという構造的な問題がある。
研究者の沈黙と論文不正は彼らの学問の自由の侵害と深く繋がっている。
‥‥
2017年12月23日、東京大学「学問の自由」侵害事件の解説用の動画を作成し、アップしました。その中で、私がこの事件に関心を抱いた動機をこう述べました。

私は、2011年3月11日までは、「学問の自由」に大きな関を持たなかった。しかし福島原発事故の発生後の日本社会の歪みはそれ以前とは断絶しているほど酷いものです。そうした歪みに最も敏感なのが大学の先生を代表とする知識人です。だから、大学の先生たちから色んな声があがるのではないかと思っていました。しかし、現実には大学の先生たちから殆ど声はあがらず、まるで福島原発事故はなかったかのように沈黙したままでした。思わず、今の大学の先生の正体は隠れキリシタンかと思いました。大学の先生が隠れキリシタンなのは、彼らに実際上、大学で表現の自由も学問の自由もないからではないかと考えるようになった。大学に学問の自由がないことが、311後の日本の歪みを象徴する出来事のように思えてきた。これが私が、東大「学問の自由侵害」事件に関心を抱く理由です。

今月10日、この歪みを告発する番組
NHKスペシャル「追跡 東大研究不正
~ゆらぐ科学立国ニッポン~」が放送され、番組の最後で東大の堀昌教授(薬学系)がこう言いました。

世の中的な価値判断にあわせる形で、自分の研究の方向性すら変えていかなければならない、資金を得るために
そういう状況はまさに本末転倒になっていて、
そういう状況は非常に大きな問題を感じています。



今、東大を含め日本で進行している研究不正の根本が、金銭による学問の自由の支配、研究者の自由の喪失にあることが示されました。これも、現代における学問の自由の侵害の典型です。

問題は、こうした人事の不正、研究不正の最大の被害者は誰かです。それは、 研究の成果に基づいて作られた現代社会の中で生きざるを得ない私たち一般市民にほかなりません。それは、400年前、地動説を唱え迫害されたガリレオと同じです。ローマカソリック教会による迫害により最大の被害を被ったのは、天動説のもとで、天動説に基づいた封建的なピラミッド型秩序の中で不当な扱いを受けていた一般民衆でした。ガリレオの地動説は新時代の到来を告げる真実として、一般民衆を解放するものだったからです。
この真実は今も変わりません。学問の自由が奪われるというのは、私たちを解放する、新時代を告げる真実が奪われることになるからです。私たちは、私たちを解放する、新時代を告げる真実を取り戻すために、学問の自由を取り戻す必要があります。

【第1部】東大 学問の自由侵害事件

【第2部・第3部】東大 学問の自由侵害事件

 参考資料
前提となる資料:東大柏キャンパス新領域の組織体制->こちら。教員人事の流れは->こちら
今回の裁判の決め手となった証拠、上記の動画でも取り上げられている重要な資料を2つ紹介します。

1、教員人事で、教員の「分野及びポスト」を変更する場合の手続を定めたルール
    そのルールには、発議した専攻で、再度、審議・決定することとされていることです(以下の注1)。
   今回の教授人事では、このルールが無視されました。
   その上、看過できないことは、今回の裁判の中で、東大がこのルールが存在することを知りながら、すっとぼけていたことです。


 2、実際には開催されなかった2009年11月25日の分野選定委員会が開催され、分野の変更について討議され、柳田氏も含め全員一致で承認したとする虚偽の内容の報告書(これが学術経営委員会に提出され、分野選定委員会で分野の変更が承認されたという報告が承認された)。
  


 関連記事
努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

東大「学問の自由」侵害裁判の公式ブログ ->こちら

【お知らせ】「国破れて、末人あり」を超えるために:3月3日、東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告柳田辰雄教授の最終講義「私の学融合と学問の自由」

東京大学「学問の自由」侵害裁判の判決は3月15日午前10時(東京地裁4階411号法廷)詳細->こちら
「国破れて、末人あり」:福島原発事故後に専門家・研究者はなぜ隠れキリシタンのように沈黙しているのか:それは学問の自由の侵害と繋がっている(詳細->こちら) 

この問題意識に立ち、実際に東大で起きたスキャンダラスな「学問の自由侵害裁判」を素材に吟味するイベントが以下の通り開かれます。

2018年3月3日に東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告柳田辰雄教授の最終講義を、以下の通り行います。
当日は、パネルディスカッション、参加者との公開討論も予定しています。
誰もが参加聴講できます。
このテーマに関心を持つ方の参加をお待ちしています。

◆◆ 柳田辰雄教授最終講義 ◆◆
題名:「私の学融合と学問の自由」
日時:3月3日(土) 午後2時~
場所:東京大学大学院経済学研究科棟 3階 第2教室
地図->http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_01_j.html
パネルディスカッションの発言者
・ 柳田辰雄
  ->HP



・ 平山朝治(筑波大学人文社会系教授)
 ->HP
      

・ 柳原敏夫(法律家。東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告代理人)
 ->HP
                     





  (C)1996 Naoyuki Kato


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学問の自由とは・・・


 教員研究者は、思想を表明することを専門職能上の業務としており、職責上思想を表明しない自由をもたない。しかも、彼らは、みずから職能遂行上の手段をもち、依頼者と直接個人的に接する他の専門職能とことなり、研究手段からきりはなされており、大学設置者に雇われることにより始めて研究手段に接近し、また役務の受け手(それは集団化されているという特色をもつ)に接することができる。教員研究者が真理と信じることを表明することによって、研究手段を奪われることを、市民的自由行使に対するしっぺ返しとして容認することは、かれらの専門職能遂行を不可能ならしめることである。 
                                           高柳信一学問の自由」より

憲法は、なぜ、表現の自由・思想信条の自由の保障のほかに、さらに学問の自由を保障したのか?・・・
 
1、現代憲法(日本国憲法等)において「学問の自由」が登場した理由 

明治憲法には 表現の自由を保障したが、「学問の自由」は保障しなかった。日本国憲法で初めて「学問の自由」の保障が登場した。なぜ、新憲法で初めて登場したのか。
 また、これはこう言い換えることができる--日本国憲法は思想および良心の自由や表現の自由など一般的な市民的自由を保障しており、本来なら、研究の自由はこれらの保障で足りる筈である。それなのになぜ、その上に「学問の自由」を保障したのか。
それは以下の通り、学問研究をめぐる研究者の環境が変化したからである。

2、学問研究をめぐる研究者の環境の変化 

研究者といえどもまず生きていかなければならない。論理的には人間としてまず生きる条件が満たされて、次に研究することができる。そこで、サラリーマンとして商店主としてまたは農民として生きる糧を得て、その余暇に、余力をもって学問研究を行う場合がある。このような研究に対して、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由(以下、この意味で「市民的自由」と呼ぶ)が保障されるのは当然である。しかし、近代社会の進展の中で、研究対象がますます複雑化し、研究方法がいよいよ精緻化するにつれ、こうした余技としての研究は例外的となり、それに代わり、学問研究の主要な地位を占めたのが、余技としてではなく、生活の糧も学問研究の場も同時に得る雇用された研究者たちの職業としての研究である。彼らは、大学に代表される教育研究機関に雇用され、生活の糧を与えられながら、同時に、教育研究機関において学問研究に専念したのである(以下、この職業的研究者を「教員研究者」と呼ぶ)。

 この雇用関係の結果、本来であれば、教員研究者が教育研究機関において学問研究に従事するにあたっては、彼らに対し、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権[1]等)を行使することが認められる。しかし、学問研究とは本来、これに従事する研究者が自らの高められた専門的能力と知的誠実性をもって、ただ事実に基づき理性に導かれて、この意味において自主的にこれを行うほかないものである。そこで、もしこのような本質を有する学問研究に対し上記諸権能の行使がそのまま認められたのでは、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自主性が損なわれるのは必至である。なぜなら、雇主は使用人である教員研究者の研究態度や研究内容が気に入らなければ、雇主の権限を用いて使用人を簡単に解雇することが出来、或いは使用人の研究内容や方法についてあれこれ指示を出すことも出来、雇主の指揮命令下にある使用人である教員研究者はこれらの措置に従わざるを得ないからである。雇主のこれらの措置の結果、結局において、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自由は存在の余地がなくなる。

3、学問研究をめぐる研究者の新しい環境に対応した新しい人権の登場 

以上より、仕事の余技として学問研究を行うのではなく、教育研究機関に雇われて当該機関で使用人としての立場で学問研究を行うという「新しい環境」(その環境は偶然のものではなく、近代資本制社会において構造的に必然のものとして出現している)の下では、教員研究者に、単に個人として一般的な市民的自由を保障しただけでは、彼らの主要な学問研究の拠点である教育研究機関内部において学問研究の自由を保障したことにはならない。教育研究機関の内部においては、教員研究者は雇用における指揮命令の関係によって、一般的な市民的自由は既に失われているからである。

 そこで、教育研究機関の内部においても、教員研究者に既に失われた市民的自由を回復し、もって教員研究者の学問研究の自由を保障するために、新しい皮袋=新しい人権を用意する必要がある。それが「学問の自由」が登場した所以である[2]。すなわち19世紀後半以降、新しい人権として「学問の自由」が意識され、その保障が要求されるようになり、遂にその保障が実現されるに至ったのである。この意味で、教育研究機関の内部で一般的な市民的自由の回復をはかる「学問の自由」は市民的自由と同質的なもので、従ってそれは学者(教授)という身分に伴う特権ではなく、教育研究機関における真理探究という終わりのない過程ないし機能そのものを保障する「機能的自由」であり、それは学問的な対話・コミュニケーションであるからそのプロセスに参加するすべての者に保障されるものである(高柳「学問の自由」36~41頁。61~65頁)。

                                               (原告準備書面(8)

本件事件:国際政治学か国際法専攻の研究者を採用するための教授人事において発生した3つの違法行為とは・・・

※ 予備知識:東大柏キャンパス新領域創成科学研究科の教員人事手続の流れ

①.本来、教授人事の具体的な教授候補者の募集が進行している場合、発議した専攻の基幹専攻会議で応募者の中から候補者を1名決定します。
 しかし、本件では、教授人事の具体的な教授候補者の募集が進行しているさなかに、何らの手続も採らずに、突如、この教授人事が「中断」されました。このような事態の発生はおよそ考えられず、これを禁止するルールすら存在しないほど異常な出来事です。

②.本来、どの専門分野の教授を採用するか、一度決定された分野をその後、都合により変更する場合には、その教授人事を学術経営委員会に発議(提案)した専攻の基幹専攻会議であらためて討議・決定する必要があるというルール(申合せの注1)があります。
 しかし、本件では、このルールを無視して、発議した専攻の基幹専攻会議の討議・決定を経ないで、変更された新分野の教授人事が学術経営委員会に発議(提案)されました。

③.本来、学術経営委員会に発議(提案)された分野変更については、学術経営委員会は分野選定委員会を設置し、分野選定委員会は会議を開催し、そこで審議・決定するルール申合せ)があります。
  しかし、本件では、分野選定委員会の開催・審議・決定という手続を取らずに、その手続があったかのように仮装して、分野変更が決定されました。
 さらにこの仮装に関して、公務員は職務に関して虚偽の内容の文書を作成すると虚偽公文書作成罪となりますが(刑法156条)、本件では、実際は開催されなかった、分野選定委員会が開催され、審議の結果、全員一致の承認による決定があったとする虚偽の内容の報告書が作成され、学術経営委員会に提出されました。この報告書の作成は刑法の虚偽公文書作成罪となります。

以上の詳細は->原告準備書面(6)


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福島原発事故後に専門家・研究者はなぜ沈黙の中にいるのか:それは学問の自由の侵害と繋がっている(2017.12.23) 

努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

「国破れて、末人あり」を超えて(自由の森で語る第1回自主講座「ゲスト柄谷行人」から)(1995年10月28日)

かつて、中国の詩人杜甫は「国破れて、山河あり」とうたいましたが、現代は「国破れて、末人あり」です。
その末人について、
以下は、1995年10月28日、私立学校の自由の森学園で開いた第1回自主講座で、ゲストの柄谷行人さんの発言です。

  ***************
司会
じゃ、最後にどうぞ。

父母
正直言って、僕、自由を本当に考えている人か、いや自分が不自由だということを真剣になって考えている人は、周り見て自分もよくよく考えてみると、ほとんどいないんじゃないかと感じています。
今自由じゃなくて、僕自身の今の状態、結構不安なんですよね。それで、自森の今の状態なんかでも、すごく不安です、正直言って。
だからそういう意味で本当に自由っていうものは何なのかっていうことを問い直さなくてはならないんじゃないかなと思っているんです。

自分の家庭の中でもそうなんですけど、自分の本当の思っていることを言えないっていうか、表現するのが悪だという感覚があって、それを抜け出さなきゃならないんじゃないかな。そういう意味では先程の女性だけだとか、そういうふうな人しか小説なんか書けないっていうような論調に僕はとったんですけど、そうじゃなくてあらゆる人が言われていた今を認識するっていうか、そっから自由が“である"んじゃなくて“となる"というところに、自由が本当にあるんだということが言われていましたけれども、そういう意味で、あらゆる人が小説も書けるし、もの書きのもなれるし、創造者といようなものをやっていく可能性があるというか、そういうものを充分もっているんじゃないかと思うんです。

そういう意味で、自森の子供達の様子というか、僕なんか来るのは何か行事があったり、寮の父母なんですが、父母会のような時しか子供が見えないわけですね。だけど、表面みると、煙草吸ったり、トイレの中のドアが壊れたり、そういうような状態しか目にっかないんですけど、ぽけっとして、講堂なんかの子供達がやっていることとか、学園祭の時玄関ホールで中学生の女の子がコーラスをやっていましたけど、その中で強制されなくてやっている、輝いているものがあるんですよ。そういうものに心豊かにさせられる、引きっけられるんですが。こういうふうに自森、自由というものが成り立っているものだから、その中で育っているものを我々自身がもっと重視し、認識していかなければならないんじゃないか。その中で育つものに大きな希望があるんじゃないかということが今感じている素直な感想です。

柄谷
小説に関して言ったことは、貴方が言ったのとぜんぜん逆の意味ですよね。僕の言ったのは。簡単に言うと、小説が全く重要な意味をもった時期とそうでない時期があるということです。小説において、かって宗教がそうであったぐらいの情熱が注がれたわけです。
また、そのような器でもあった。戦後文学をみたら分かります。あらゆるものがそこに投げ込まれているわけです。今それをそれをやっている人がいて、この前埴谷雄高が発表しましたけど、彼は60年間同じものを書いているわけです。

しかし、今は小説はそのような器と成り得ないだろうと思うんですね。それは何も悪くないと思うんですよ。それはそれで。他にいろいろあるわけですから。昔みたいに何もなかったんだから、小説しかない、となるわけです。それから他のものがあまりにも脚光を浴びなさ過ぎるということがあるんですね。例えば野球だったら野球ばっかしで、他のスポーツはオリピックぐらいの時に騒がれて、やっぱりやる気がなくなるでしょ。そういう意味でいくと小説、小説と騒ぎ過ぎるなといいたい。なんなんだということでね。何もないじゃない。僕も批評家みたいなことで、最近選考委員なんかいくつかやっているんですけど、もう読むのもいやでね、なんだって、ものすごい時間のむだをしたっていう。昔のものはいいんですよ。だけど、今の小説を読むと、結局、時間を浪費した、そのなんていうか怒りで、耐えられないですね。

そのことは別にしまして、もう一っのことですけど、今日、柳原さん自身からも感じたことなんですけど、この学園は親が熱心ですよね(笑)。それで、こういう所に来るでしょ。ふっうはないんですよ、こういうことは。そのことだけでも、変わってるんですから(笑)。その場合、親の夢というものが入っていると思うんですけど、親は何者なのかっていうと、必ずその反面教師をもってきた人達ですよ。つまり、自由がなかった人達ですよ。ですから、子供にはそれをさせないようにする。そういうことがあるんです。しかし、そのような条件をもともともった子供達はどうなるのか、ということを考えていないと思うんです。おそらく、そこから今の問題(学内暴力事件)は出てきているはずなんです。ですから、それは重要な実験だと思うわけです。未来に関して。

歴史の終焉という議論があった時に、日系のアメリカ人でフランシス・フクヤマっていう人が、へ一ゲルをつかって書いたんですけどね。量後の人間っていうことを、“末人"というんですけどね、末の人っていう、これはですね、何をやっているかというと、だいたいそれを考えた人はフランシス・フクヤマではなくて、一人はコジェーブっていう東欧からフランスヘ行った人なんですけどね、その人がそういうことを言ったんですけど。
へ一ゲルから歴史の終わりにはどういう状態になるかと言った時に、彼は最初ね、アメリカ人のようになる。アメリカ人のようになる、どういうことかって言うと、動物性というか、精神が全くない。フロリダあたりで、もうひっくり返っているような人達、そういう感じでしょうね。しかし、そのコジェーブが1960年くらいに日本に来たんですね。そうするともう、考えを変えてね、本の第二版には、註にね、書き加えてるんです。「私は今まで歴史の終わりにはアメリカ人のようになるんだろうと思ったが、日本人のようになる。」(笑)。どういうことかって言うと、全く精神のない動物にはならない。だけど、精神的な闘争とかですね、へ一ゲルは闘争があることが精神なんですから、それがなくなった状態っていうのがどうなるかっていうと、本当は彼は、スノビズムといっているんですけど、いわゆるスノーブではないんですね。どういうことかって言うと、日本は1600年以降、歴史のない時代に入った。戦争が終わったわけですね。そうすると無意味なことをやる。まあ、生け花でも何でも。腹切りもそうなんですね。ほとんど無意味なことをプレイとしてやる。そのような、別に彼は日本の事をよく知っているわけでも何でもないですよ。ただ、ある意味で当たっていると思うんですが、彼が言うには、世界は今後日本化するだろう。そうするとね、僕が思うには、ある種の精神性を持たない、しかももう実現すべきものも何も持たなくなってしまって、最終段階っていうのは、どういうふうになるか。なんか、アメリカ的になるか、日本的になるか、確かそういう感じがするんですよ。

でも、僕はそれは、最後ではないと思っているんですよ。それはね、全世界がそうなるっていうことになった時はそうなる可能性もあるが、今の段階では、日本でそうなっていようと、外は違うんですね。外には貧困もあれば、もう絶望があるわけです。単純にあるわけです。そのようなことを全く無視していられる状況が、日本にあるだけなんですね。そうであれば、それは末人でもなんでもないわけです。最後の人間でも何でもないわけです。そのような条件そのものが崩壊する可能性もあるわけです。
ですから、僕はむしろ、認識っていっているのは、そういうことを認識するべく、やるべきだと思っているわけです。そうでないと、少なくとも、外からの緊張っていうのはここに入って来るはずですよね。それで、(自由の森という)場所だけで、場所として自由を確保していくというだけでは、結局はそれは耐えられないだろう。僕はやっぱりその、闘う用意をしておくべきだと、闘うというのは自由であるべく闘うという用意ですね。それをしてないと、まあ、末人のようになってしまうんじゃないか。

司会
最後に一言だけ、話をさせてください。今日長時間にわたって、柄谷さんにいろんな話をしていただいたんですけど、私自身、柄谷さんがこの学校に来てくれることが、まだ本当に半信半疑だったんですけど、最後に末人の話を聞きまして、少し納得がいきました(笑)。
やっぱり、ここは自由の実験をやるべく学校であるということですね。四苦八苦されると思いますが、そういう意味では非常に、やり甲斐のある学校であることを、柄谷さんから注目というか、認めてくれたということになりまして、またばかな親として、引き続きがんばろうと思います。

2018年1月27日土曜日

壊れゆく日本。沖縄と福島は戦争状態にある。壊れゆく日本を再建する源、それは沖縄と福島にある。

1、壊れゆく日本。沖縄と福島は戦争状態にある

日本が壊れているかどうかは、沖縄と福島を見れば分かる。

なぜなら、沖縄と福島は戦争状態にあるから。

沖縄は、太平洋戦争の沖縄戦が終わった後もずっと戦争の入り口に立っている。
1962年のキューバ危機で米国は沖縄米軍に中国に向け核攻撃命令を下したが、現地司令官の命令無視の判断により発射されず、全面的核戦争の発生つまり人類滅亡免れた。この事実が最近明るみにされた(2015年3月15日東京新聞)。2017年9月10日放送NHKスペシャル「スクープドキュメント沖縄と核」)

ずっと戦争と隣合わせに生きてきた沖縄県民は「命こそ宝」を掲げ、基地縮小を叫び続けてきた。だから、これに全く応じようとしない日米政府の本質を知り抜いている(沖縄戦で息子を失い、戦後、米軍の銃剣とブルトーザーで土地を奪われるという非人間的な目に遭わされてきた阿波根昌鴻(あごん・しょうこう)さんの「米軍と農民」「命こそ宝」参照)。

だから、沖縄県民は、今後、集団的自衛権の戦争になった時、日本政府が私たち市民(沖縄県民)を決して助けることはないことを過去の経験から学び尽くしている。

福島も、2011年3月11日以後、戦争状態にある。放射能という目に見えない人体への情け容赦ない攻撃にさらされ続けているから(※1)。
その中で、何も言わない福島県民でも日本政府の本質を知り抜いている。日本政府は、戦争状態にもかかわらず放射能の感受性の高い子どもすら避難をさせようとしなかったどころか、民主主義の基本原理である法治国家を放棄し、
法律に基づかず、いきなり学校の安全基準を20倍に引き上げて、(お偉いさんたちの子弟は避難させても)一般の子どもらを福島に閉じ込めたから。
もし裸の王様をわらう子どもが文科省の
安全基準20倍引き上げ通知を見たら、きっと叫ぶだろう。--なんだ、りゃあ!?空中四回宙帰りのアクロバット、それとも正真正銘の法的なクーデタ!?
 
だから、避難を口にしない福島県民でも、今後、集団的自衛権の戦争になった時、日本政府が私たち市民(福島県民)を決して助けないことを3.11以後の経験から学び尽くしている。

 (
※1)(年間1mSvだけでも「毎秒1万本の放射線が体を被ばくさせるのが1年間続くもの」(矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授))

※2)文科省の20倍引き上げ通知法的なクーデタである。その詳細は->こちら


2、日本の福島化

だが、311以後、戦争状態になったのは福島だけではない。日本そのものである。

原発事故後、福島ではずっと命と健康を脅かされ続けている。それにもかかわらず、この異常事態
を「おかしい!」と声をあげることすらできず、経済復興を旗印にした、目に見えない戒厳令が敷かれ、続いている。

しかしこの異常事態は福島にとどまることなく、日本中に拡大した。
2013年12月6日、民主主義の基盤である情報公開に逆行する秘密保護法を迷走国会審議、強行採決の末成立させ、
2014年7月1日、従来の憲法解釈の変更と称して、集団的自衛権の行使ができる場合があるという憲法違反の閣議を決定し(これを東大の憲法学者は「法学的にはクーデタ」と評した。しかし、3年前の2011年、政府は法的クーデタを経験済みである)、
法学的には、クーデター)、
2015年9月19日、憲法改正なしには不可能な戦争法(安保関連法)を憲法改正なしで強行採決の末成立させ、
2017年6月15日朝、自民、公明両党は委員会採決を省略できる「中間報告」の手続を使い一方的に参院法務委員会の審議を打ち切り、本会議採決を強行し、異例の徹夜国会の末、共謀罪を成立させ、
他方で、研究者を軍事研究に向かわせ、
日本中が戦争の脅威の中で命と健康を脅かされ、それにもかかわらず「おかしい!」という声をあげることができない体制=福島の戒厳令体制が全国に拡大、敷かれようとしている。

だが、この異常事態も、法的なクーデタが敢行された311後の福島から見れば不思議でも何でもない、想定通りの展開である、「日本の福島化」である。
311後の7年間の福島の姿は今日と未来の日本の姿だ。


、沖縄と福島が変わらなければ日本は変わらない、沖縄と福島が変われば日本も変わる
 
普天間に限らず沖縄の原点は、《銃剣とブルドーザーで強制収容された場所だということ》。
こう言った翁長沖縄県知事は、その原点から考えれば沖縄の基地問題の正しい解決の方向は誰の目にも明らかだと訴えている。
真理・原点は誰の目にも明らかな単純明快なもの。
 福島原発事故も同様だ。
被ばく者は どこにいても被ばく者である
福島の子どもたちの原点は、原発事故直後に国の責任で子どもたちを避難させなかったということ
この真理・原点から考えれば福島原発事故による被害者救済問題の正しい解決の方向は誰の目にも明らかだ。

 戦争の本質と悲惨さを知り抜いている沖縄の人々の「命と平和」を求める「島ぐるみ」の声が、今後、日米政府を圧倒し、辺野古新基地建設を阻止できたとき、「命と平和」を求める市民の勝利だ。それは、「命と平和」と真逆な戦争に向かおうとする勢力に対して最も強烈なノーという声になり、壊れゆく日本を正しく再建する礎・希望となる。

 3.11以後、放射能による核戦争の本質と悲惨さを知り抜いている福島の人々の「子どもたちの命と平和」を求める声が、今後、日本政府を圧倒し、子どもたちの避難その他の脱被ばく対策を実現できたとき(それが「チェルノブイリ法日本版」の制定->こちら)、「命と平和」を求める市民の勝利だ。それは「命と平和」と真逆な戦争に向かおうとする勢力に対して最も強烈なノーという声になり、壊れゆく日本を正しく再建する
礎・希望となる。
壊れゆく日本の再建の行方と運命は、沖縄と福島の「命と平和」を求める取り組みにかかっている。
「命と平和」を求める沖縄と福島は日本の未来そのものである。


  
  阿波根昌鴻さんの「ヌチドゥタカラの家展示
 真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっています。 真謝(まじゃ)農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。
だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません。(阿波根昌鴻さんの「米軍と農民」18頁)
かつてわしは、『米軍と農民』のはじめにこう書きました--伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません--
その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。(阿波根昌鴻さんの「命こそ宝」14頁)

2018年1月25日木曜日

経過観察問題(3):福島県は、《県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務もなければ、症例数を把握する鈴木眞一教授らの研究プロジェクトとも関わりはない》と答弁(2018年1月22日子ども脱被ばく裁判)


経過観察問題の最新記事(2018.4.13)は以下の通り。 
【速報】【経過観察問題(4)】国破れて記憶あり、で症例数を隠ぺいする被告福島県にはこれを開示する説明責任がある(2018.4.13)

経過観察問題福島県は、《『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数は把握していない》と答弁201子ども脱被ばく裁判)->こちら
経過観察問題福島県は、《求釈明の対象を福島県立医大付属病院における症例に限定した場合であっても、被告福島県において本訴訟における求釈明に対する対応として調査し、明らかにする余地はない。答弁20110月1子ども脱被ばく裁判)->こちら
関連記事184人以外にも未公表の甲状腺がん〜事故当時4歳も」(Ourplanet-TV 2017.3.20)
               「存在していた!福島医科大甲状腺がんデータベース(Ourplanet-TV 2017.8.30)

福島で子どもたちの健康を脅威にさらした責任を負う者は、ハーグで現在、責任を問われているアフリカやアジアの指導者らと同じ道を歩むべきである」(原告準備書面(5)第5、山下発言問題)

<はじめに>
2018年1月22日、福島地裁で、子ども脱被ばく裁判の第13回の弁論が開かれ、昨年からの懸案事項である「いわゆる経過観察問題」で、被告福島県は末尾の書面(準備書面(13)に記載された答弁をしました。
しかし、この書面を読んでも殆どの人は何を言っているのかチンプンカンプンでしょう。これこそ、誰にも分かることを誰にも分からないように煙に巻くことをひたすら心がけ、自分の主張を正当化する「東大話法」規則16のお手本にほかなりません。
<傍観者の論理・欺瞞の言語>である東大話法」の規則をばらして、極力、誰にでも理解できるように解読し直す必要があります。すると、次のようになります。  

<福島県の答弁の解読>
1、《福島県は、以下に述べる理由から、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務がある》という原告主張(原告準備書面(43)6頁以下)について、
①.結論として、《福島県には、そのような義務はない》 と初めて明言し(5頁下から3行目以下。黄色の線で表示)、
②.その理由について、上記義務があるとする根拠についての原告主張は、単に《原告代理人の意見を述べるだけであるから、福島県は答弁するまでもない》、つまり義務がないとする根拠について福島県は明らかにする必要もない、と(6頁。黄色の線で表示)。

まとめると、福島県には、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにする義務もなければ、そのような義務がない理由についての説明責任もない、と。


2、《鈴木眞一福島県立医大教授と山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学が提携して進める研究プロジェクト(※3)が上記の症例数を把握しているから、福島県も当然、症例数を把握している》という原告主張原告準備書面(43)2頁以下)について、
①.結論として、《福島県は、症例数を把握していない》 と従来の主張をくり返し、
②.その理由として、《福島県と鈴木眞一教授らの研究グループとは別の組織、別の主体であり、福島県はこの研究グループとは何の関わりもない》。それゆえ、この研究グループがどんな社会的使命を持ち、どんな目的で、どんな研究をしているか、福島県は知るよしもない(不知だ)。だから、この研究グループが症例数を把握していたとしても、福島県はこれを知るよしもないからだ(2頁。第1、2.黄色の線で表示)。
まとめると、鈴木眞一教授らの研究グループは福島県とは別者であり、そのグループが何をやろうと福島県には関心も関係もなく、どうぞ勝手にやって下さい、だから福島県はそのグループが把握している情報(上記の症例数など)についても何も知らない、と。

以上から、今回、福島県が示したものは、雨が降ろうが槍が降ろうが草津白根山が噴火しようが、どんなことが起きても、県民健康調査の甲状腺検査で「経過観察」となった2523人の子どものうち「悪性ないし悪性疑い」が発見された症例数を明らかにすることは決して、ぜったいしないという不退転の決意です。だが、説明責任を伴う民主主義社会で果してこんなことが可能なのか。可能です。それは<傍観者の論理・欺瞞の言語>である「東大話法」を最大限活用することによってです。


<「東大話法」の見事なお手本、
福島県の答弁
1、上記1は、「東大話法」規則2『自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。』のお手本です。
近代裁判制度の大原則
  近代の裁判制度がそれ以前と違うのは、18世紀の市民運動が、市民革命の末に獲得し、制定た近代憲法の成果「権力の濫用を防止し、人権保障を実現する」原則を近代の裁判制度に盛り込んことです。その1つが、事実認定にせよ、法的な判断にせよ、それを導くためには理由を明らかにする必要があると宣言したことです。このどこが一体そんなにスゴイのか?そう思う人が多いかもしれません。しかし、近代の裁判制度がおそろしいのは実にこの点にあると言って過言ではない。 或る決定を下すにあたって、理由を、それも合理的な理由》の開示を要求されるというは他の機関(議会、行政府)ではあり得ないことだから。 だから、裁判では、多数決に任せて、権威や権力にあぐらをかいて、決定を下す訳にはいかない。これは実に大変なことで、それゆえ、市民革命のあと、権力を行使する者は何とか、この近代裁判の原則を骨抜きにしようと躍起になり、これに抵抗する市民との間で、終わりのないStruggle(たたかい)が続いてきました

民事裁判の手続
民事裁判の手続を定めた法律(民事訴訟法)は、判決に記載する項目についてこう定めています。

第253条 判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一 主文
二 事実
三 理由

‥‥
つまり、判決の結論である主文を導くためには必ず理由を示す必要があるのです。こんなことは法を制定する国会にも法を執行する政府にもありません。国会は多数決で決めればよく、制定の理由を示すことは求められていません。しかし裁判では判決の理由が示されていなければそれだけでその判決は上級裁判所で破棄されます。またたとえ判決の理由が示されても、それが合理的なものでなければやはり破棄されます(民事訴訟法312条2項6号)。

また、判決には事件を構成する事実を記載する必要があり、事実を認定するためには証拠に基づく必要があります(証拠裁判主義)。しかし、この証拠に基づく事実認定が合理的なものでなければ上級裁判所で破棄されます(自由心証主義に関する247違反)。


これが国会や政府とちがう、近代裁判制度の原則です。その心は或る決定を下すにあたって、多数決や権威や権力ではなく、あくまでも合理的な理由に基づくことを万人の前で説明するという「証明の精神」にあります。

では「証明の精神」とは何か。かつて、数学者の遠山啓はこう言いました。

直角三角形に関するピタゴラスの定理は経験的には既に古代エジプトで知られていた。しかし、ピタゴラスが偉いのはそれを証明してみせたことである。証明するまでは、たとえどんなに偉い王さまであろうともそれを主張することは許されない。他方、たとえどんな馬の骨でも証明さえできれば認められる。これが数学そして科学の精神である。


この数学そして科学の精神が「証明の精神」です。

裁判所が「人権の最後の砦」と言われるのは、多数決や権威や権力ではなく、あくまでも証明によって判断を下すというユニークな原理を採用したからです。だから、裁判所がこの原理を失えば、国会や政府と同様、多数決や権威が幅をきかすただの権力機関に成り下がってしまいます。


だから、裁判で「証明の精神」が発揮されるのは、ゴールの判決ばかりでありません。ゴールに至る審理の過程においても「証明の精神」が発揮されなくてはなりません。つまり事実認定にせよ、法的な判断にせよ、それを導くための理由づけをめぐって、当事者である原告と被告がお互いに主張→反論→再反論という議論の積み重ねを通じて、理由付けをめぐる双方の主張を整理・明確にすることが大前提となっています。民事訴訟の規則にも、《準備書面において相手方主張する事実否認する場合には、その理由を記載しなければならない》(79条3項)と明記されています。


 ところが、今回、福島県がやったことは、原告の主張は単に《原告代理人の意見を述べるだけである》と『自分の立場の都合のよいように解釈し』、そこから、《福島県は答弁するまでもない》という結論を引き出し、理由付けについて自分たちの主張の提出を拒んだことです。これは「東大話法」の規則2『自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。』の素晴らしい応用です。

ここから判明したことは、福島県には議論の積み重ねによる理由付けの明確化という近代裁判制度の原則のルールを守る気がないということです。こういうことをする人を世の中では無法者といいます。こういう無法者ぶりが、福島県という地方自治体の現状だということを私たちは知っておく必要があります。つまり、ここからもまた我々の国は崩れている、と。


2、上記2は、「東大話法」規則3『都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。』のお手本です。
確かに、鈴木眞一教授らの研究グループの上記j研究プロジェクトは表向き、グループ内部の研究者たちの企画で始まった私的な研究プロジェクトのようにみえます。しかし、事故前ならともかく、いやしくも福島原発事故が発生した後において、この研究プロジェクトは原発事故による福島県民の健康被害の現状と対策を適切に講じるために最も差し迫った、最も重要な調査・研究であり、これを私的な研究グループの手にゆだね、ほったらかしにするるなぞ福島県民の健康の確保に第一義的な責任を有している福島県の自殺・自滅行為であり、想像すら出来ません 従って、本来であれば、福島県はこの研究プロジェクトをしかるべき研究者集団に実施を命じ、或いは委託し、必要な指示を出し、適宜、研究結果の報告を受けるなど緊密な関係を築く必要があります
ところが、今回福島県は《「上記j研究プロジェクトを実施する研究グループと緊密な関係を築く必要がある」という都合の悪いことは無視し、「この研究グループは福島県とは別者である」という都合のよいことだけ取り上げて、福島県はこの研究グループとは関わりのないものであり、それゆえ、福島県は上記j研究プロジェクトの目的も成果も何もかも知らない、と主張しました。
ここから判明したことは、福島県には原発事故による福島県民の健康被害の現状と対策を適切に講じるために最も差し迫った、最も重要な調査・研究である上記j研究プロジェクトをみずから実施する気が全くないということです。こういうことをする人のことを世の中では三無(無気力・無関心・無責任)主義者といいます。こういう無気力・無関心・無責任ぶりが、福島県という地方自治体の現状だということを私たちは知っておく必要があります。つまり、ここでもまた我々の国は崩れている、と。


<結論>
福島県は原発事故以来、「復興。復興」をくり返してきました。それほど復興を望むのであれば、何よりも第一に、以上に述べた、己自身の無法ぶりを悔い改め、無法からの復興を実行すべきです。己自身の無気力・無関心・無責任を悔い改め、三無主義からの復興を実行すべきです。県民に対しては、復興、復興と、復興への協力を求めながら、己自身に課せられた上記の復興には知らぬ存ぜぬという顔をするのであれば、福島県は偽善者です。


経過観察問題
 福島県が県民健康調査の甲状腺の二次検査で「経過観察」とされた子ども(単純合計で)2523人はその後「悪性ないし悪性疑い」が発見されても、その数を公表していなかった問題。->詳細

東大話法」規則16
 ○規則16:わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

※3研究プロジェクト
2013年12月頃からスタートした、福島県立医大甲状腺内分泌学講座の主任教授鈴木眞一を研究責任者として、山下俊一長崎大学副学長率いる長崎大学と連携しながら、福島県内の18歳以下の小児甲状腺がん患者の症例データベースを構築し、同がん患者の手術サンプル及び同サンプルから抽出したゲノムDNAcDNAを長期にわたって保管・管理する「組織バンク」を整備する研究プロジェクトのこと。この研究プロジェクトを記載した2つの研究計画書[1](甲C73~74)や研究成果報告書[2](甲C75)が存在する。





[1] 研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(甲C73)、「若年者甲状腺がん発症関連遺伝子群の同定と発症機序の解明」(甲C74)
[2]研究課題名は「小児甲状腺がんの分子生物学的特性の解明」(C75

以下の被告福島県の準備書面(13)は、原告準備書面(43)に対して答弁したものです。