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2017年2月7日火曜日

抵抗権の実行(3.4新宿デモの呼びかけ)(17.2.7)

※ 以下の呼びかけに対し、広瀬隆さんが答えてくれました(→広瀬さんの返信)。こういう問答こそ私の願ったものです。

抵抗権の実行=3.4新宿デモの呼びかけ

こんにちは柳原です。依然寒い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
今年初めての挨拶を差し上げます。

事故から年経過して
福島原発事故からまもなく6年です。三宅島の天災では政府と自治体は全島避難したのに、日本史上最悪の未曾有の人災である福島原発事故は、人道上の措置として私たちも当初からずっと求めているにもかかわらず、人災の加害者である政府と自治体は汚染地から子どもたちの避難を今なお実現していません。奇跡のような信じ難い現状に、この6年間、まるで時間が止まっているかのような錯覚に襲われます。

日本の福島化
ただこの6年間ではっきりしたことがあります。汚染地から子どもたちの避難が実現しないことは日本が直面する「石が流れて木の葉が沈む」最悪の異常事態です。しかし、今の議会制民主主義には日本が直面する最大の緊急課題であるこの異常事態の過ちをただす力も意思もないということです。それならば諦めるしかないのか。その通りです。私たちは選挙のときだけ主役で、あとは劇場の観客でしかない代表民主制に依存することを諦めるべきです。そして、私たちは議員が集う議会ではなく、市民が集う広場に向かうべきです。また、この6年間で実感したことは、歴史はひとときも静止することなく、変化し、進化するものだということです。私から見てこの6年間は、日本全体が福島のようになる「全国の福島化」です。原発事故後、福島ではずっと命と健康を脅かされ続けながら、この異常事態を「おかしい!」という声すらあげることができない目に見えない戒厳令が敷かれ、ずっと続いています。しかし今、それが日本中に拡大しました。戦争法案を成立させ、共謀罪成立をめざし、研究者を軍事研究に向かわせ、日本中が戦争の脅威の中で命と健康を脅かされ、にもかかわらず「おかしい!」という声をあげることができない体制=福島の戒厳令体制を全国に拡大、敷かれようとしているからです。この6年間の福島の姿は今日と未来の日本の姿なのです。

トランプ登場という歴史の転換点
 これに対し、先日のトランプの大統領就任を見ていて、歴史の進歩を実感しました。トランプの大統領当選は、口では盛んに「チェンジ」と言いながら殆ど何も実行できなかった社会民主主義的政策のオバマ政権とその後継者であるクリントンに対し、選挙民からのノー!(きれいごとはもういい!)の表明でしたが、しかし、きれいごともかなぐり捨てて、傍若無人に強欲を追求するトランプが就任するや、世界中の広場から市民の抗議行動が起こったからです。これが本当の「チェンジ」の始まりです。

抵抗権
 35年間法律家をやっていて、ずっと分からなかったことがあります。憲法の教科書に「人権の随一、究極の問題は抵抗権である」と書かれている理由です。なぜ、表現の自由や生存権といった人権の究極の問題が抵抗権なのか?なぜ、近代人権宣言のアメリカ・フランス両革命の人権宣言に抵抗権が定められていたのか?その後の人権宣言で姿を消した抵抗権が、なぜ、第二次大戦後、再び定められるようになったのか?最後の答えはよく知られています。ワイマール憲法体制(議会制民主主義)を使って権力を握りワイマール憲法体制を破壊したファシズムの経験をくり返さないためです。では、なぜそのために抵抗権なのか?それは人権の究極の姿が抵抗権だからです。ならば、なぜ人権の究極の姿を抵抗権と表現したのか?――そこには、政府の圧制から人々の自由と平等を勝ち取ったアメリカ・フランス両革命に参加した当時の市民たちの確信が率直に表明されていました。しかし、なぜ抵抗権が究極なのか、その理由は示されていません。
今から10年前、一冊の本が出版されました。「生物と無生物のあいだ」。私にとって、この本が抵抗権の謎を解いてくれました。そこには生物が無生物と異なる理由について、生物学の視点から次のように書かれていたからです――自然界の法則であるエントロピー増大の原則は生物にも降りかかる。その結果、高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、生物はこの法則を受け入れ、なおこれを受け入れない抵抗の仕組みを見つけ出し、実行した。それが、やがて崩壊する構成成分をあえて先回りして自ら分解し、このような乱雑さが蓄積する速度より速く、常に成分を再構築すること。このダイナミックな分解と再構築を実行する点に生物を無生物と分かつ最大の特徴がある。生物の生物たる所以とは自然界の法則であるエントロピー増大の原則に抵抗して秩序を自ら作り上げることにほかならない。この意味で、抵抗は生物であることの証(あかし)である。だから、政府の圧制により人間らしく生きることを否定されるときこれに抵抗することは、別に誰かに教わったからではなく、生物であることそのものからやって来る根源的な反応である。その意味で、抵抗をしないとき、或いは抵抗をやめたとき、生物は無生物または生きる屍(しかばね)になるしかない。
 だから、私たちは、生物=人間であることをやめない限り、原発事故前であろうが事故後であろうが、非人間的な扱いに対し、抵抗しない訳にはいかない。だから、広場で「おかしい!」と意見を表明し、単に金の問題だけでは片付かない、本来の救済はいかにあるべきかを共に問答し探求しない訳にはいかない。それをやめたとき、わたしたちは運命に逆らわず無感動の中で生きるしかばねか従順な家畜になるしかないのです。そのことを昨夏、モントリオールの世界社会フォーラムに世界中から参加した市民の人たちの数々の行動を目の当たりにして、確信しました。

認識の甘さと抵抗権の実行
 原発事故直後、私は無邪気にこう考えていました――これくらい明々白々の人権侵害「子どもたちの被ばく」が救済されない理由はどこを探しても見つかりっこなく、誰にも救済を否定する根拠は挙げれないと確信してきました。その通りでした。しかしだからといって、救済は何一つ実現しませんでした。結局、日本政府も自治体もこれについて6年間黙して一切語らぬで、口にするのは「経済復興の妨げをするな」だけでした。そこから見えてきたことは汚染地の子どもたちの集団避難をもし本気で実行したら日本の現在の政治、経済体制は根底から揺らいでしまうと彼らは本気で危機感を抱いているのではないかということでした。もしそこまで危機感がないのなら、かつて菅直人がハンセン病患者救済を宣言して名を馳せたように、子どもの集団避難を宣言できたはずである。そして、その政治家は弱者ファーストとして絶大な信頼を勝ち得たはずである。しかし、政治家は誰一人実行する気配もない。子どもの集団避難は現政治、経済体制にとってタブーなのだ。
そこで私も決断を迫られた――現政治、経済体制にとって子どもの集団避難は触れてはならないタブーだという事実にどう立ち向かうのかである。しばし黙考した結論は次のことだった。もし汚染地の子どもたちを集団避難したために、日本の政治、経済体制が根底から揺らぐんだったら、それでもしょうがないじゃないか、今の政治、経済体制が原発事故で命と健康を脅かされている子どもたちの命と健康を守れないようなものなら、そんなものは粗大ゴミとして退場してもらうしかないんじゃないか。それをハッキリ表明すべきだ、と。と同時に、そのときこそ広場にみんなで集まって、粗大ゴミの今の政治、経済体制に代わって、子どもたちの命と健康を守り抜けるような、人間が人間として尊重され、大切にされるような政治、経済体制に作り変えていくために智慧を絞り、すべての希望を注ぎ込むしかないのではないかと。そのためなら、どんなに時間をかけてもかけるだけの甲斐のある取り組みなのではないか。それが本当の「チェンジ」、本当の「大改革」なのではないか、と。
昨夏のモントリオール訪問で、この心地よい夏が半年後には零下40度の厳寒になると言われた時、どうやってそこまで冷えるのか信じられませんでした。しかし今、それが現実のモントリオールです。私たちの目には見えない地球の傾き(地軸)が厳寒のモントリオールをもたらしたのです。政治、経済の仕組みはこの地軸みたいなものです。私たちの目に見えないところで、政治、経済の仕組みが原発事故で命と健康を脅かされている子どもたちの救済の妨げをもたらしているのであれば、少なくとも救済の妨げになっている側面を除去するよう、その仕組みを改めるしかありません――しかし、そんなことが果して可能なのだろうか。100年前、中国が最も暗い時代に魯迅はこう言いました。
「いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいない。‥‥道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。いばらばかりのところに開拓してできたもの」である、と(「随感録」)。

 それよりさらに2400年前、古代ギリシャで、ひとりの男が、議会ではなく広場に出て、公人となるのではなく私人として、誰彼となく市民に話しかけ、人々を問答に巻き込み、人々が陥っている虚偽の前提を論破し、人々が自ら真理に到達するように正義のために戦いました。ソクラテスです。彼のような人物が道のなかったところに道を踏み出したおかげで、その後の歴史の中で、人々は綿々と、広場で意見表明し、討論することの意義を知り、実行に挑戦し、その質量を高めていったのだということを、昨夏のモントリオールに集まった世界市民を目の当たりにして思いました。

 2500年後の私たちも、広場で、誰彼となく市民に話しかけ、人々を問答に巻き込み、今なお緊急事態宣言下にある日本(この6年間で福島化した日本)の最優先課題である汚染地の子どもたちの集団避難の問題の解決について、虚偽の前提を論破しながら、真実に沿った解決策を共に探求し、正義にかなった救済の実現に向けて訴えていきたいと思います。それが来たる3月4日の新宿デモ「子どもを被ばくから守ろう! 住宅補償の継続を!」です。
以 上

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