柳原 敏夫
原発事故は二度発生する
3.11福島原発事故は二度発生した。一度目は「自然と人間の関係」の中で、福島第1原子力発電所の中で、天災などの偶然の要素と科学技術の未熟さ、見込み違いによって発生し、二度目は「人間と人間の関係」の中で、我々の社会の中で、確固たる信念と世論操作に基づいて発生した。だから、二度目の原発事故はもはや単なる事故ではない。それは事故と言うよりむしろ事件と呼ぶのがふさわしい。それが3.11事件である。
10月15日の2つの出来事(2011年・2016年)
では、3.11事件の本質とはなんだったのか。それが私にはずっと疑問、謎だった。
その疑問は例えば次のように迫ってきた。
2011年10月15日、山本太郎は福島県郡山市にいた。この日、彼は判決を目前にした「ふくしま集団疎開裁判」を応援するデモの集会でこう発言した。
「どうして(ふくしま集団疎開)裁判をしなくちゃいけないんだ?おかしいじゃないですか!国が率先して子どもたちを逃がす、そうしなけりゃダメなんですよ」
(以下の画像をクリックすると彼のスピーチ動画が再生)
当時、この裁判の代理人の私は胸を突かれ、思わずつぶやいた。
「そうだ、なんで、こんな裁判をしなくちゃいけないのか」
こんな裁判をしなければならなかった理由は、ひとえに文科省が子どもたちの集団避難を決定しなかったことによる。そればかりか、文科省はその反対に、2011年4月19日、福島県の学校の安全基準を20ミリシーベルトに引き上げたからだ。文科省のこの通知を知った時、私は我が耳を疑った。文科省は気が狂ったのではないか。文科省こそ日本で最大のイジメ、児童虐待の張本人だ、それどころか彼らは国際法上の「人道に関する罪」の犯罪者ではないか、と。
他方、ひょっとして、それは原発事故直後の大混乱のせいではないかとも考えた。そのため、3.11事件の本質はずっと?のままだった。
5年後の2016年10月15日、その謎が解けた。この日、福島第1原子力発電所の脇を南北に走る6号国道の清掃を――その清掃地域は地元市民の土壌汚染測定によれば放射線管理区域の何倍も高い地域である――地元中高校生がボランティアでやるという「みんなでやっぺ!!きれいな6国」のイベントが実施されたからである。
放射線管理区域で中高校生が清掃するとはどういうことか
原発事故前からずっと放射線管理区域でも仕事をしてきた小出浩章さんは放射線管理区域について次のように言っている。
「(そこは)みなさんは入ってはいけない場所。私のように特殊な人間だけが、特殊な仕事をする時に限って入って良いというのが放射線管理区域です。・・・
仕事が終わったらさっさと出て来いというのが放射線管理区域ですが、でも、簡単には出られないのです。・・・1㎡当たり4万ベクレルを下回らない限りは、管理区域の中から外へ出られない。・・・
仕事が終わったらさっさと出て来いというのが放射線管理区域ですが、でも、簡単には出られないのです。・・・1㎡当たり4万ベクレルを下回らない限りは、管理区域の中から外へ出られない。・・・
もし私が、私が管理している放射線管理区域の中から放射能を持ちだして、どなたか一人を被曝させるような事をさせれば、私は犯罪者として処罰された筈なんです。日本の国家から。・・・
原発事故前だったら、放射線管理区域の中に一人でも人々を置くことは、犯罪として処罰された。
原発事故後は、放射線管理区域の中にどれだけ人々を置いても、誰も処罰されない。
チャップリンは「殺人狂時代」で「一人殺せば悪党、百万人殺せば英雄」と言った。
今まさにそれがここで起きているのです。」(以下の画像をクリックすると彼のスピーチ動画が再生)
確信犯の6国清掃ボランティアの拠り所
この「殺人狂時代」が今、福島で起きている。それが先週実施された「みんなでやっぺ!!きれいな6国」清掃ボランティアである。そこから考えてみたとき、さきほどの謎が解けた。原発事故から5年経過しても、依然、このような正気を失ったイベントが堂々と実施されている。それは決して無知によるものではない。昨年も同じイベントが実施され、批判があったのを重々承知で今年も実施したのだから。これは確信犯であり、起こるべくして起きた出来事だ。では、主催者は一体どこに拠り所を置いてこの正気を失ったイベントを確信をもって実施したのか――思うに、その拠り所の原点は3.11事件にある。
なぜなら、3.11事件で日本政府がやったことは憲法上の言葉でいえば、国民主権を捨て、主権は原子力ムラにあるという原子力ムラ主権を採ることに改めることだったからである。もっとも、それは何食わぬ顔をしてこっそり決定された。同時に、それはしっかり実行された。その結果、3.11事件ですべてがひっくり返った。その象徴的な例が4.19文科省通知だ。元来、国民から付託され子どもたちの教育とすこやかな成長を支援する責任を追い、自ら子どもたちの最大の守護者であることを任ずる文科省が子どもたちの最大の迫害者になったのだから。これは戦後70年間で一度もなかった、21世紀の日本の一大政変であり、原発事故という一種の戦争(この意味はのちに述べる)の中で敢行された、見えない法的クーデタであった。むろん日本政府も安穏とこれを決断実行したわけではない。「ただちに安全上問題が生じることはない」と必死に言い訳して時間稼ぎする間に「情報を隠すこと」「様々な基準値を上げること」、そして「事故を小さく見せること」の正気を失った政策を次々と実行してきたのであり、その総仕上げが今、遂行中の「安全な福島」への帰還政策と支援打切りだった。
過去の見えない政変(法的クーデタ)
ただし、このような政変は日本史上、初めてのことでなかった。今から70年前に経験している。それが1945年8月、日本政府がポツダム宣言を受諾したとき、日本の主権はそれまでの天皇主権を捨て、国民主権を採ることに改められたからである。明治憲法のもとで、天皇主権から国民主権へ変更することは合法的には許されず、従って、憲法上からは、これは超合法的に、ひとまず平穏のうちに行われた「ひとつの革命」である。これが「八月革命」[1]である。もっとも、今回と「八月革命」とでは主権変更の向きが正反対である。しかし、世界大戦という戦争の中で遂行された、見えない政変という意味で両者は共通している。
放射能事故は一種の戦争である
のみならず、放射能事故は一種の戦争である。それは原子力発電所だけでなく、周辺の放射能汚染地域の人々にとっても戦争である。もともと放射能には二重の世界があって、私たちの五感で感じる日常世界にとって放射能は何も変化が感じられない。しかし、ひとたび日常世界を一皮むいてミクロの世界から眺めたとき、放射線は私たちの細胞を破壊し、健康被害を引き起こしている。ミクロの世界では、放射能汚染地域は桁違いな量でくり返される核分裂と同時に発射される放射線とのたえまのない戦いの世界である。それは原爆とはちがうが、もうひとつの核戦争である。
他方、戦争の本質は日常世界が断ち切られ、非日常世界が姿を現わすことでもある。戦争について考え続けた作家大岡昇平は、「レイテ戦記」のインタビューで戦争についてこう述べた。
「ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどんなものであるか、分からない。単に、お前はあっちに行け、あの山を取れとしか言われないから。だから、自分がどういうことになって、戦わされているのか分からない。」
しかし、3.11事件のあとの私たちも実はこれと同じではないか。なぜなら、
「3.11のあと、ひとりひとりの市民から見ると、福島原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない。単に、「健康に直ちに影響はない」「国の定めた基準値以下だから心配ない」とかしか言われないのだから。だから、一体自分がどういう危険な状態にあるのか、どう対策を取ったらよいのか、本当のことは分からない」。
この意味でも、放射能事故は一種の戦争である。
この意味で、福島原発事故のあと、放射能汚染地域の人々は戦争に巻き込まれた。しかし最大の問題は人々がそこから救い出されなかったことだ。日本政府はこれらの人々を守るのではなく、我が身と原子力ムラを守ることに決めたからである。それが3.11事件=3月政変である。
日本近代史と日本現代史の転換点
さらに、上記のインタビューで大岡昇平は8月6日から9日、15日までについて、次の指摘をしている。
「8月6日が広島原爆投下、9日が長崎。15日が終戦。これが日本近代史の三大転換点ですよ。6日から15日までは我々が正気を取り戻さなければならない日だ。いくら戦争のことを忘れようたって、現に日本は不沈空母になりつつあり、将来に核戦争という大きな人類的な危機が存在している中で、正気になる時が来たと言えるんじゃないですかね」(1984年8月15日「大岡昇平 時代への証言」)
つまり、広島・長崎の原爆投下と終戦(ポツダム宣言受諾)が明治以来の天皇主権を捨て、国民主権に転換した「八月革命」を引き起こした転換点となる出来事だった。将来に核戦争という大きな人類的な危機が存在している中、私たちはこのことを思い出し、正気に戻る必要がある、と。
同様の意味で、2011年3月11日からについて、次のことが言えるのではないか。
「3月11日が福島原発事故。3月21日が国際原子力ムラのICRPの勧告[1]。4月19日がその受諾を前提にした文科省20ミリシーベルト通知[2]。これが日本現代史の三大転換点だった。3月11日から4月19日までは我々が正気を取り戻さなければならない日だ。いくら原発事故のことを忘れようたって、
原発事故収拾と放射能汚染は終わっておらず、現在、放射能汚染地の人々の危機が進行している中で、正気になる時が来たと言えるんじゃないですか」
つまり、日本史上未曾有の原発事故とICRP勧告受諾が八月革命以来の国民主権を捨て、原子力ムラ主権に転換した「三月政変」を引き起こした転換点となる出来事だった。現在、もうひとつの核戦争の中にいる放射能汚染地の人々の危機が進行している中、私たちはこのことを思い出し、正気になる要がある、と。
日本現代史の正確な認識と異常事態の抜本的な正常化
ただし、天皇主権が国民主権に変更された「八月革命」に対し、3.11事件=「三月政変」は方向が逆で、国民主権が独裁的な主権に変更された。その結果、2012年から官邸前にどれほど人々が集まり、声をあげても全く聞き入れられず、これを見た外国特派員が「ヨーロッパではあり得ない。日本は民主主義国家じゃない」と言ったのは文字通り正確な観察だった。2015年9月、国民投票による憲法改正をせず、解釈改憲で戦争法案を成立させてしまうのも「三月政変」の担当者にとって朝飯前のことである。未来の私たちの見取り図とその実行方法は既に「三月政変」で決まっている。
その結果、今この時点で、最大の犠牲者は放射能汚染地の人々とりわけ子どもたちである。と同時にそれは、私たち全員の未来の姿でもある。
この前代未聞の異常事態を私たちはただす必要がある。しかし、そのためには、大岡昇平が言ったように「広島・長崎の原爆投下と終戦を思い出し、正気に戻る」だけでは足りない。今の事態は3.11事件で国民主権が奪われているからである。そこで、主権を原子力ムラから国民の手に変更する必要がある。それは本来の主権者である私たちだけが成し遂げることができる事業、有能な一握りの専門家では不可能で、私たちひとりひとりが総結集するによって初めてなし遂げることができる事業である。この私たちがやらなかったら永遠にこのままである。
そのためには、私たちは正気に戻った上で、まず、
1、放射能に関する様々な基準・規制を、無条件で3.11前の状態に戻すこと。
この無条件復帰が不可欠である。しかし、それだけでは足りない。既に放射能災害が発生したからである。放射能災害で被害を受けた人々の救済に正面から取り組んでこそ初めて主権を国民に復帰させることができる。幸い、私たちにはそのお手本がある。チェルノブイリ事故後に旧ソ連で制定された世界初の放射能災害に関する人権宣言であるチェルノブイリ法である。それが、
2、放射能災害から国民の命と健康と生活を守る人権法を制定すること、すなわちチェルノブイリ法日本版を制定すること。
400以上の原発がある地球上で、いつどこで原発事故があってもおかしくない今日、今ここで、放射能災害から人々の命と健康と生活を守る人権法・人権宣言が地球上になくてはならない。この放射能災害に関する人権法・人権宣言制定の呼びかけは、5年前原発事故を起し、その猛省の上に立って今後チェルノブイリ法日本版を制定する日本から、そして憲法9条を持ち、国際平和を願って4年後に東京オリンピック・パラリンピックを開催する国日本から行うべきである。それが
3、原発を輸出するのではなく、チェルノブイリ法日本版を輸出すること、つまりチェルノブイリ法日本版を世界に輸出して、チェルノブイリ法国際条約が制定されるように率先して取り組むこと。
以上の3つが2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに私たち主権者自身の手で成し遂げる最も大切な課題である。かつて中国の作家魯迅は道とは何かについて、こう書いた。
「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(故郷)。それは「いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいないものだ。」(随感録)
2020年、私たちは口先ではなくて、真実、この国の主権者としての地位に復帰し、命と健康と生活と平和を愛する地球市民として、胸を張って、全世界から人々を迎えたいと思う。
まとめ
3.11福島原発事故は二度発生した。二度目の3.11事件で、日本政府は国民主権を捨て、原子力ムラ主権を採ることに改めた(三月政変)。以後、原発に限らず、解釈改憲による戦争法案の成立など全ての分野にわたって異常事態が一気に加速した。
これらの異常事態の原点は3.11事件=見えない三月政変にある。
これらの異常事態を正常化するためには、原発事故の最大の被害者である放射能汚染地の人々の救済を実現し、主権を再び私たち市民の手に復帰させる必要がある。
その具体的な取組みが、放射能災害に関する世界最初の人権法・人権宣言であるチェルノブイリ法の日本版の制定である。
日本社会の再建と未来はこの原点を無視してはあり得ない。
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