2018年10月24日水曜日

【報告3】今回も、 「国敗れて、命あり」を貫いた原告(代読)の意見陳述(2018.10.16)

今回もまた、福島原発事故の渦中にほおり込まれた中で命を求めて必死に生きた経験を切々と綴った原告の意見陳述(ただし、当日は体調不良のため、欠席。別の原告によ代読)がなされ、涙ながらに、そして被告ら代理人を凝視しながら代読する言葉と姿に、陳述を終えたあと、傍聴席からまたしても、拍手の嵐が沸き起こりました。
今回は、さすがに裁判長も制止を求める発言をしましたが、その声は優しく促すようなものでし

以下は、この原告の意見陳述。(全文のPDFは-->こちら

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                    原告意見陳述

 東日本大震災の原発事故から7年半。事故半年後の9月、夫は避難先で仕事を探すため単身で実家の長崎県に行き、残された私と事故当時小学一年生だった娘は、1年半福島県郡山市で生活をしていました。当時の郡山市は風向きの関係もあり、線量が高く不安な日々を過ごしたことを覚えています。

1年間に浴びても影響がない放射線量1ミリシーベルトが、福島県だけが20ミリシーベルトに引き上げられ何の根拠もなく『直ちに健康に影響はない』『安全』と危険なはずの放射能が『安全』な、放射線に置き換える発言やイベントを多く目や耳にすることとなり、ますます不安な毎日を過ごすこととなりました。

外遊びが大好きだった娘は段々とストレスが溜まるようになってきました。また、体を動かさない事で太ってきました。学校でも屋外活動が制限されあらゆる行事が中止となりました。

『直ちに健康に影響はない』ということや、娘が転校を嫌がっていたこともあり、郡山に留まり生活を送っていました。

原発事故直後は政府の宣伝で屋内にいれば安心と思っていました。しかし事故から3ヶ月経った頃から、屋内の放射線量も気になりはじめてきました。しかし、線量計など手には入りません。インターネットやラジオ、テレビのニュースなどで郡山市内の空間線量をチェックするしかありませんでした。

郡山市内の小中学校は東日本大震災後、そのまま春休みに入りました。新学期が始まってから、無用な被曝を避けるため、娘は車で登校するようになりました。夏でも長袖長ズボン、帽子にマスクと異様な光景です。家の中の放射能を少しでも減らしたいと毎日のようにふき掃除も始めました。娘の健康を守るため必要以上に神経質になっていたのです。原発事故から1年が経った頃から、放射能と戦う毎日に限界を感じ始めていました。2012年9月、郡山市から貸し出しができた線量計で室内を測りましたが、毎日、必死になってふき掃除をしても線量の値がさがらないのを見て、とうとう、ここではダメだと感じました。私の実家、先生、友人と離れることを嫌がる小学三年生の娘と一緒に夫の実家がある長崎県へと避難しました。娘の健康を考えると、根拠のない言葉に振り回されることで、将来的に取り返しのつかないことになってしまったらという、見えない放射能に対しての不安に襲われてしまったのです。

娘はことある事にニュースになる、福島原発の映像を見て泣いていました。小さな心を痛めていました。なぜ、娘が小さな心を痛めていたか、お分かりになりますでしょうか?福島には大切な私の実家、先生、友達が福島に残って生活しているからです。福島原発がまた爆発したら、放射能汚染が拡大したら、大切な人達の命がどうなるか、分からなかったからです。心配で心配で仕方なかったからです。

避難生活は、思っていた以上に大変でした。見知らぬ土地での言葉や風習の違いに私と娘は、逃げ場を失っていました。私達は長崎弁が話せないし、理解できなかったのです。放射能から免れ、健康的な生活を送れているはずなのに、心の中は闇でした。孤独でした。

夫の仕事は長崎県では見つからず、2014年3月末、首都圏へ移動し生活をすることになりました。言葉や風習の壁はなくなりましたが、家族それぞれが心身に病気を抱えることとなってです。

娘は、2014年夏、風邪の治りが悪くたまたま触診で首の腫れが確認され、甲状腺血液検査をすることになりました。結果、甲状腺に疾患が見つかりました。知らない土地での避難生活や東日本大震災、原発事故により発症した、心的外傷後ストレス障害。夫は慣れない土地での生活に大量の仕事を1人抱え込んだ結果、適応障害と診断されました。そして、私。2016年夏にたまたま受けた甲状腺検査で疾患が見つかりました。夫の療養で生活が激変し『男性が怖い』という気持ちがありながら業者対応が多い、住み込みマンション管理人の仕事に就くこととなりました。パニックに陥りながらも、この仕事を辞めてしまったら住むところがなくなってしまう、生活ができなくなってしまうという気持ちが大きく、家族の生活を守るために必死でした。

このような中で2014年夏、2016年夏に甲状腺疾患が娘と私にみつかり『直ちに健康に』ではありませんでしたが怒りを感じました。あの時、国が根拠なく『直ちに健康に影響はない』ではなく、子供の健康を、そして自分たちの健康を守るために『避難』を呼びかけてくれていれば少なからず健康は守れたのではないでしょうか?自分たちに厳しく国や東電が原発の管理をしっかりしていれば、最悪な原発事故を防げたのではないでしょうか?

今年の春帰省し、それまで線量を測定していた近所の公園で、「線量の測定は終了しました」と看板に記載されていたのを見て驚きました。そして、夏に帰省した時にはその看板までが撤去されてありませんでした。今、学校や公共施設に設置されている『モニタリングポスト』も撤去されようとしていることを耳にしました。福島県内に住んでいる人達は何を目安に生活していけばいいのでしょうか?避難している私達家族が心身共に病気で苦しい思いをしているのですから、福島県内に住んでいる人達は私たち以上に苦しんでいると思います。

今の私達家族は地に足がついていません。将来の不安ばっかりで大きくなっています。でも、娘の健康を守りたいこれ以上病気を悪化させたくない気持ちは変わりません。国の言葉を信じず、もっと早く避難しておけばという後悔ばかりです。

子供は国の宝ですよね?その子供達の命を健康を守るのは、大人の義務ではないでしょうか?警戒区域、警戒区域外を問わず国の責任で避難させて、子供を守ることは当たり前のことであって、避難する権利を保障しようとしないこと、命や健康を守る行動をしないことはいかがなものかと思います。

最近原発再稼働のニュースを見て残念に思っております。福島原発の事故が教訓になっていないからです。

国や福島県の方はもっと私達県民の声に耳を傾けて寄り添うべきではありませんか?子を持つ親の気持ちを考えるべきではありませんか?私たちの命や健康を守ることを優先に考えて欲しいものです。

慣れない土地での避難生活は大変です。しかし、私は娘の命、健康を守るために避難という道を選びました。でも、もっと早くすべきだったと後悔しています。

繰り返しになりますが、国や福島県は、福島県民に寄り添ってください。私たちの心の叫びに耳を傾けてください。

どうかよろしくお願いいたします。

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