311原発事故後の社会。そのエッセンスはあべこべにある。
原発事故を起こした加害者たちは、救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、
命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される。
あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を、演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる。狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされる。これをあべこべの不条理な社会と呼ばずして、何と呼んだらいいのか。
では、311後の理不尽なあべこべは正すことができるだろうか。
できる。では、どうやって?
それもまた311後のもう1つのあべこべによってである。
311原発事故のあと、それまでにはなかった出来事が起きた。
それまで、市民運動に縁がなかった人たちの中から、それこそ取り憑かれたかのように放射能の危険性について猛勉強し、猛烈に行動する人たち(新人類)が出現したからである。
例えば郡山市の長谷川克己さん、松本徳子さん。
二人は、事故直後、どこにそんなエネルギーがあるのかと思うほど測定を行い、信頼できる学者・医師の講演会を求めて参加するなどメチャクチャ行動した。
まさしく、「放射能から自分の子どもと家族、そして人々の命、健康、暮らしを守りたい」とそのために自分で出来ることは全てみずから努力し、検討し、選択して行動しようと一心不乱で取り組んで来た。
だからこそ、人々の命、健康、暮らしを守ることが存在理由である日本政府、福島県に対し、その怠慢ぶり、無為無策という犯罪に対しても、当然のことながら、誰よりも情け容赦ない批判が及んだ。
そのような新人類の一人が山本太郎。
彼もまた、311までは市民運動とは全く縁がなかった、ただの役者。
それが311で雷に打たれたように変貌し、放射能から人々の命、健康、暮らしを守りたい」とそのために自分で出来ることは全てみずから努力し、検討し、選択して行動しようと一心不乱で取り組む市民の一人となった。
だから、彼もまた、人々の命、健康、暮らしを守ることが存在理由である日本政府がそれを果さないことに対し、常識を突き抜けた、情け容赦ない批判を加えた。例えば、2011年10月15日、郡山市でやったふくしま集団疎開裁判のデモ。デモ前のスピーチで山本太郎はこう発言した。
「どうして(ふくしま集団疎開)裁判をしなくちゃいけないんだ?おかしいじゃないですか!国が率先して子どもたちを逃がす、そうしなけりゃダメなんですよ」
疎開裁判を全否定された――当時、疎開裁判の弁護団長だった――私は、これを聞き、思わず「そうだ、なんで、こんな裁判をしなくちゃいけないのか。おかしい!」と合点した。
311後の正義と不正義が入れ替わったあべこべの世界を正すことができる人というのはこういう人、あべこべを自ら身をもって生きている人である。なぜなら、山本太郎はあべこべを正すことが自分の天命であることを311を経験する中で身をもって知ってしまったからである。
311後のあべこべの社会を正せる政治家は山本太郎しかいない。
(動画)2011年10月15日郡山デモ:山本太郎スピーチ
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