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2023年12月20日水曜日

【感想2】「山下発言」問題(23.12.20)

以下、その前日、子ども脱被ばく裁判の二審判決言い渡しがあった子ども脱被ばく裁判の弁護団MLへの投稿。

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 柳原です。

昨日の判決の感想の続きで、私の担当の山下発言について、昨日喋った感想を少し整理してみました。
改めて、判決は破綻している、よくぞここまで破綻してくれたと、彼女は破棄されるためにあの判決を準備したのではないかとすら思えてきました。
参考までに、山下発言に言及した準備書面も添付しました(>221022控訴人準備書面(10)県準備書面(2)に対する反論(提出版) 230306訴人準備書面(12)第8山下発言問題(完成版))。 

12.18控訴判決の「山下発言」問題の検討

論点

12.18控訴判決

現実の控訴人の主張

ア「被控訴人県は、事故の規模やリスクを過小化することで県民の不安を鎮静化させ、県民が避難という被ばく回避の措置を選択することにより「県行政に発生するパニック」を恐れ、山下俊一に福島安全論を展開させ、県民が避難措置を選択することがないよう依頼し、山下俊一はこれに応えて、科学者の顔をしながら、意図的に非科学的な福島安全論を説明して回り、当時福島県民が抱いていた正当な被ばくに対する警戒心を解き、県民に無用な被ばくをさせ、デマゴーグ(政治家)としての役割を果たした」という控訴人主張(34頁)

1、こうした主張を裏付ける「具体的な証拠はなく」

 

 

2、そもそも、山下発言①~⑤が控訴人ら各自の避難行動への具体的な影響について的確な主張立証を行なっていない

 

判決の摘示部分は、控訴人が控訴理由書135頁で、被控訴人県が山下俊一に放射線健康リスクアドバイザーを委嘱した趣旨について、原判決による控訴人主張の要約が正しくないから、原審準備書面(76・最終)の4、結論(110頁)に基づいて正しい要約はこうですよと主張したにすぎないもので、それ以上、控訴人は「被控訴人県が山下俊一に放射線健康リスクアドバイザーを委嘱した」行為自体を国賠法1条1項の違法行為に該当すると主張したことは一度もない。そもそも、当事者が主張もしていない請求について裁判所は判断すべきではない以上(処分権主義)、控訴裁判所は控訴人が主張もしていない上記論点について判断すべきでない。にもかかわらず、控訴裁判所は上記論点について判断を試み、主張を裏付ける「具体的な証拠はなく」とか「控訴人ら各自の避難行動への具体的な影響について的確な主張立証を行なっていない」などと判断をしたのは「余計なお世話」どころか処分権主義違反である。

イ(ア)、山下発言を特定するに際して、山下発言を受け取る県民側の立場に立って、彼らがどのように受け止めたかで特定されるべきであり、情報の発信者である山下氏自身の意図や真意がどうであったかは、山下発言の特定の際の付随事情として斟酌されることはあったとしても、特定の基準とはなりえない、という控訴人主張について

(控訴人準備書面(5)69頁以下。(2)、裁量の違法判断の対象の特定の方法について①.山下発言内容を特定する基準(その1)。控訴人準備書面(10)11頁以下。控訴人準備書面(12)26頁以下)

1、「一般の聞き手や聴衆が、客観的にどのように受け止めたかにより認定すべきであり、発言の趣旨を理解する際には、発信者の意図や真意も考慮したうえでこれを行うのが相当である」

これは端的に誤り。なぜなら、本件は原発事故発生直後の緊急非常事態の状況下における「山下発言の特定」の問題であって、「平時」の平和で安定した状況下における特定の問題ではないからである。両者の違いを自覚する必要性、重要性については控訴人準備書面(12)26頁以下で強調した以下の通りである。これに対し、控訴判決は、本件をあくまでも「一般」の聞き手や聴衆を問題として捉え、「平時」と変わらない状況であるかのような観念上の想定の中で考えば足りるのだという立場に陥ったものであり、薬局距離制限違憲判決(最大昭和50年4月30日)から厳しく批判されるべきである。

⑤.控訴人の主張「山下発言内容を特定する際、彼が実際に口にした外形的事実(言葉)に基づいて発言内容を特定すべきである」と被控訴人県の反論「山下氏の内心の真意や意図に基づいて山下発言を特定すべきである」(24.32~33頁)

 目の前で発生した原発事故という生きた現実に立脚してその中で考えたとき、過去に経験したことのない健康被害の危機に直面していた県民にとって切実だったことは、今、ここで県民の健康被害の危険はどうなのか?という生きた現実に根ざした具体的な問題であって、そのような危機のただ中において、一刻も早く、避難も含め放射能から健康を守るために必要な対策を捜し求めて山下発言を聞きに来たのであった。こうした緊急非常事態の状況下においては徹底した表示主義による情報伝達が求められること、この緊急非常事態の状況下において県民はなぜ山下氏から発せられた言葉だけではなく、そこには表示されない彼の内心の隠れた真意や意図まで忖度して山下発言内容を特定しなければならないのか、その合理的な必要性も理由もないことが導かれる。

これに対し、目の前で発生した原発事故という現実から遊離し、あたかも「平時」と変わらない状況であるかのような観念上の想定の中で考えて足りるという立場に立ったとき、ちょうど平時の「山下俊一氏の人と人生」といった文化講演会において県民は山下氏の口から発せられた外形的事実(言葉)だけではなく、彼の内心の隠れた真意や意図まで忖度して山下発言内容を特定するということも不可能ではないと認められるように、本件でも、県民は山下氏の内心の隠れた真意や意図まで忖度して山下発言内容を特定することが不可能ではないことが初めて導かれるのである。

イ(イ)、本件では伝達する情報の内容が科学という専門的知識に関するため、科学の素人である市民にとっては、「山下発言の全体を振り返って個々の発言の意味を理解し評価を下すこと」は不可能を強いることになり、実際には、市民の関心のある話題(放射能の危険性など)について、山下氏の片言の説明から理解してしまうのがむしろ現実的である。科学の素人である市民のこのような傾向を踏まえると、違法判断の対象となる山下発言を特定する際に、むしろ山下氏の短い片言の説明に着目して、その説明が「放射線に対する正しい知識」を県民に伝えているかどうかを判断すべきである、という控訴人主張について

(控訴人準備書面(5)70頁以下。(2)、裁量の違法判断の対象の特定の方法について②.山下発言内容を特定する基準(その2)。控訴人準備書面(10)12頁以下。控訴人準備書面(12)25頁以下)

講演や記者会見における発言は、その発言のみではなく、全体的な構成や質疑応答を含めた発言の全体、取り上げた項目及びこれに対する説明内容を総合的に考慮してその内容を判断すべきであり、(36頁)

これも端的に誤り。なぜなら、本件は原発事故発生直後の緊急非常事態の状況下における「山下発言の特定」の問題であって、「平時」の平和で安定した状況下における特定の問題ではないからである。両者の違いを自覚する必要性、重要性については控訴人準備書面(12)25頁以下で強調した以下の通りである。ここでも控訴判決は、本件をあくまでも「一般」の講演や記者会見の問題として捉え、「平時」と変わらない状況であるかのような観念上の想定の中で考えば足りるのだという立場に陥ったものであり、薬局距離制限違憲判決(最大昭和50年4月30日)から厳しく批判されるべきである。

④.控訴人の主張「山下発言を特定する際に、むしろ山下氏の短い片言の説明に着目して、その説明が『放射線に対する正しい知識』を県民に伝えているかどうかを判断すべきである」と被控訴人県の反論「山下発言の全体を振り返って個々の発言の意味を理解し評価を下すべきである」(9.12~13頁)

目の前で発生した原発事故という生きた現実に立脚してその中で考えたとき、過去に経験したことのない健康被害の危機に直面していた県民にとって切実だったことは、今、ここで県民の健康被害の危険はどうなのか?という生きた現実に根ざした具体的な問題であって、そのような危機のただ中において、一刻も早く、避難も含め放射能から健康を守るために必要な対策を捜し求めて山下発言を聞きに来たのであった。そのような状況において、科学の素人である県民にとって、『山下発言の全体を振り返って個々の発言の意味を理解し評価を下すこと』は不可能を強いることであり、県民にとって切実な話題(放射能の危険性など)について、山下氏の片言の説明から理解してしまうのがむしろ現実的であることが導かれる。

これに対し、目の前で発生した原発事故という現実から遊離し、あたかも「平時」と変わらない状況であるかのような観念上の想定の中で考えて足りるという立場に立ったとき、ちょうど平時の「山下俊一氏の人と人生」といった文化講演会において県民は山下発言の全体をもって彼の個々の発言の趣旨を理解、評価する余裕がありそれは不可能ではないと認められるように、本件でも、県民は山下発言の全体を振り返って個々の発言の意味を理解し評価を下すことが不可能ではないことが初めて導かれるのである。

イ(ウ)。ここで3つの論点を一緒にしているので、分けて示す。

(1)、事実認定の過誤。(a)、調査義務違反
事実認定に必要な調査を尽くしていない。山下氏はSPEEDIの情報も調査せずに、福島入りした翌日3月19日の記者会見で安定ヨウ素剤服用不要と発言(控訴人準備書面(5)71頁以下)。

(2)、福島原発事故以前の山下発言とのズレ・矛盾との対比

控訴人は、原審において山下発言が科学的知見から逸脱していることを山下氏自身による福島原発事故以前の発言と対比して、両者の間にズレ・矛盾が生じていることを指摘して証明した(控訴理由書138~139頁)。ところが原判決は、この強力な証明方法をことごとく無視した上で、山下発言が科学的知見から逸脱しているかどうかについて評価を下した。カントをはじめとする科学哲学の常識からすれば、山下発言を福島原発事故以前の山下発言と比較対照することを通じて、あたかも山下氏が2人いるかのような錯覚を引き起こす経験ができ、その体験の中から山下発言の科学的逸脱の有無を吟味できるところ、原判決はこのような専門的経験則の意義を理解せずその取捨選択を誤った。それは、裁量権の逸脱・濫用の審査の事実認定の経験則の適用の局面において、山下氏が福島原発事故以前から収集してきた証拠から科学的知見を導く際に重大な経験則違反をしていることを強力に裏付けるものであるが、原判決は山下氏の重大な経験則違反を見落とした(控訴人準備書面(5)79頁以下)。

(3)、②.科学的知見が複数ある場合の伝達方法

科学的に未解明で「不確実な事態」とされる対象(現象)に対して科学的知見が複数並存する場合、これら複数の見解を正確に提供すべきであって、自己の見解のみ提供することは許されない。本件では、低線量被ばくによる健康リスクという学者の間でも決着のついていない問題について健康リスクを重視しない見解とこれを重視する見解が並存し、その結果、何が「放射線に対する正しい知識」であるかという問題が生じる。この点、個人の尊厳の立場からすれば、原発事故に遭遇した被災者にとって、放射能のリスクを回避するためいかなる方法を選択するか、その選択をできるかぎり主体的、自主的に自己決定できるよう最大限尊重されることが要請される。そこで、この選択権を保障するために、健康リスクに関する並存する複数の見解を被災者に正確に提供することが求められる(控訴人準備書面(5)68頁以下)。

 

仮に、山下発言①~⑤について、山下俊一は被控訴人権の公務員ではなく、その行為が被控訴人県の行為というべき地位にあるものでもないから、被控訴人県の裁量行為に違法はない。

 

 

 

山下発言①~⑤について、講演ないし記者会見の全体としてみれば、科学的知見に著しく反する内容であるとはいえず、

 

 

 

具体的なSPEEDI情報や放射性物質の拡散状況等の調査をしないことが裁量権の逸脱・濫用に当たることを示す具体的な事情も見当たらない

これも端的に誤り、お粗末極まりない。予防接種の担当医が国賠の「公務員」に該当するように、国賠法1条の「公務員」とは「公務員の職にある者だけでなく、給与・報酬の有無を問わず、一時的にでも公務を委託されてこれに従事する一切の者」をいう(注釈民報(19)(乾昭三)395頁)。従って、県放射線健康リスク管理アドバイザーが「公務員」であることは明らかであり(原告準備書面(5)50頁)、この点は被控訴人県すら争わない(被告県準備書面(4)18頁(2))。

 

ここで控訴人から主張された山下発言の違法性について、裁判所にとっても反論することは無理と判断し、かくなる上は、別の理屈でもって控訴人主張を蹴っ飛ばそうと考え、目も当てられない「公務員」非該当説を言い出した。

 

これは「山下発言①~⑤」がたとえ科学的知見に反していようとも、その反する程度が「著しく反する」ものでない限り、山下発言が国賠法1条1項の「違法」なものに該当しないという立論である。しかし、素人の発言ならまだしも、科学的知見の専門家を任ずる山下俊一のような人物の発言が「科学的知見に著しく反しない」限り、国賠法の違法に該当しないというのはなぜなのか、これは世界の七不思議としか言いようのない、本判決の最大のミステリーの1つである。

 

 

控訴判決の右判示は、本件が過去に前例のない深刻な「裁量権の逸脱・濫用」問題であることをまるっきり理解していない。すなわち、これまで「裁量権の逸脱・濫用」問題は星の数ほどあったかもしれないが、我が国は福島原発事故の発生により原発事故の及ぶ空間的範囲の予測不可能性及び原発事故による放射線被ばくがもたらす健康被害の空間的及び時間的影響の予測不可能性という未曾有の事態のもとで、行政庁の裁量行為が違法な「裁量権の逸脱・濫用」とならず、合法の範囲にとどまることをどうやって確保するかという災害における過去に前例のない深刻な「裁量権の逸脱・濫用」という問題に初めて直面したのである。そこで、原発事故に関する行政庁の「裁量権の逸脱・濫用」の判断を行政庁の判断過程の各局面における過誤の有無を検討し、それらを総合判断して行うにあたっては、なによりも上記の「未曾有の事態」に関する「事実認定の過誤」の有無を中心に吟味検討する必要がある(控訴人準備書面(5)5頁)。この点は、さらに立法事実論からも基礎づけられる。すなわち、

福島原発事故というそれまで頭の中で想定すらしなかった過酷な現実を経験した法律家が避けて通れない法律問題のひとつが、本件の裁量問題を単なる形式的、論理的な概念法学=「死んだ行政法」として片付けることではなく、現実世界の「生きた行政法」の中で再構成することである。そのために、「当該行政行為が現実に国民にいかなる影響を及ぼしたのか」「行政庁と国民の間の現実の関係」という現実に着目した「生きた行政法」のもとで裁量問題を検討することである。この点で、現実に即して「生きた憲法」のもとで法律の合憲性判断を行った最高裁昭和50年4月30日薬局距離制限違憲判決の立法事実論は極めて有益、示唆的であり、立法事実論の意義を行政行為の適法性の判定に対応させたのが、行政庁の判断過程の最初の局面である「事実認定における過誤」を中心に吟味検討することである(控訴人準備書面(5)14頁)。

 

2023年12月19日火曜日

【感想】「人権の最後の砦」から逃げた裁判所:絶対的上告理由「判決の理由不備」である「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』」(23.12.19)

以下、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLへの投稿。
その前日、子ども脱被ばく裁判の二審判決言い渡しがあった。言渡し直後、傍聴席から抗議の野次がわきあがり、その罵声を背に、法廷から立ち去ろうとして一瞬、ドアの前で凍りついてしまった石栗裁判長の意気消沈した姿、これほどしょぼくれた姿はこれまで一度も見たことがなかった。ニヤニヤした後ろの右陪席から促され、それで動き出して、ドアの向こうにトボトボ消えていった。この時、彼女は生ける屍になった。それほど意気消沈するんだったら、その前にもっとやれることがあったろう、と(同時にこれは自問自答でもある)。

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柳原です。

昨日の判決言渡し、お疲れ様でした。
井戸さんが早速に判決の解説を書いてくれたので、私も、昨日、喋った即席の感想をもう少し整理して、自分が担当した部分について、感想を書きました。

本日、水戸さんが書いていた石栗評。
> 審理を尽くした風に体裁は整える
> 読めと言われれば、判決要旨は厭わず読み上げる
> 慇懃無礼にも見える丁寧さ


これらはいずれも「許容範囲内」のこと、そこでは精々、猫なで声風に我々に媚すら売る。
しかし、ひとたび「許容範囲」を超えると、手のひらを返したように、情け容赦のなく人権侵害判決に出る。
そのことは、判決に書かれたことだけ読んでいても分からない。つい「審理を尽くした風に体裁は整える」かのようにコロッと騙される。 昨判決の致命傷は、判決で取り上げたことより、むしろ取り上げなかったことの中にこそより深刻な「裁判を受ける権利」の侵害があると感じました。なぜなら、石栗裁判長は、そこでこそ、我々の主張に応答することを意図的に避けて何食わぬ顔をして逃亡したからです。

裁判所の逃避のうちの端的なものが控訴人準備書面(5)(添付しました>こちら)の「行政裁量論」の全面的な主張に対する応答なしの点です。

ここでは理論的な総論として次の3つの大きな主張をしました。
1、羈束行為か裁量行為かの判断
 これまでの事例と異なり、本件の最大の特徴は、福島原発事故発生当時、原発事故の救済に関する具体的な法令が「法の欠缺」状態にあったこと。そこで、この法の「欠缺の補充」が要請され、その補充にあたっては「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」という「法体系における序列論」に従って行なう必要がある。
そこで、「欠缺の補充」を上位規範に基づいてなおかつこれに適合するように具体的に行なったとき、本件では法律の上位規範として国際人権法が登場する。すなわち社会権規約をはじめとする国際人権法の「健康に対する権利」に基づいて、原発事故の被災者の救済について「欠缺の補充」を行う必要がある。
その上で、こうした補充した「法の趣旨目的の合理的・目的的解釈をなすことによって」(田中二郎)、当該行政行為が羈束行為か裁量行為かを決すべきである。      ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「羈束行為か否か」にも「法の欠缺」にも「欠缺の補充」にも法律の上位規範である「国際人権法」にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

2、仮定主張として、仮に「裁量」の余地があるとしても、裁量権の逸脱・濫用があったかどうかは、単に裁量権行使の「結果」に逸脱・濫用があるか否かを判断するだけではなく、その結果を導く行政庁の「判断過程」の各局面において過誤があるか否かを定式化し、逸脱・濫用の有無を判断することつまり「判断過程審査」が不可欠であり、本件でもこの「判断過程審査」に従って、すなわち
行政庁の「判断過程」においていかなる調査を行い、その調査に基づいていかなる事実を認定し、当該案件に適用すべき裁量基準をいかに設定したか(考慮事項・考慮禁止事項など)、そして、その認定事実を裁量基準に当てはめていかに評価したかなどの一連の判断の過程の各局面ごとに過誤があるか否かを吟味し、それらを総合判断するとどうなるかを、準備書面(5)で全面的に展開し主張しました。
ちなみに、行政法学者で元最高裁判事の藤田宙靖が2015年に書いた論文「自由裁量論の諸相—裁量処分の司法審査をめぐって—」日本学士院紀要によれば、この「判断過程審査」は、近時の最高裁の通例であり、次のように高く評価されている判断方法です。

> (判断の当・不当)は行政政策上の問題であって、裁判所はこれに介入することができないにしても、そういった行政判断に至る手続・プロセスが適正なものであったか否かについては、裁判所が判断することが可能なのではないか、といういわゆる「手続的裁量審査論」を展開するものが出て来た。この考え方は、その後行政法学によって広く受け入れられるところとなり、今日では、それを抜きにしては自由裁量論はもはや語れないところとなっている。
> 最高裁もまた、とりわけ近時においては、行政庁が当該処分を行うに当り、その判断の過程において重視すべきでない考慮事項を重視するなど、考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いているというようなことはないか 、また他方で、当然考慮すべき事項を十分に考慮していないといったようなことはないかという視点から検討し、裁量権の逸脱・濫用が無かったかどうかの判断をするのが通例となっているが、これは、学説において一般に「判断過程審査」と名付けられ、今日では広く支持されるところとなっている(>参考)。
     ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「判断過程審査」にも「調査義務」にも「考慮事項」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(5)に対する見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

3、国際人権法の主張も、石栗裁判長が熱心に、何度もその主張を我々に促してきたもので、これについては準備書面(6)(添付しました>こちら)において、基本的な主張を提出し、なおかつ上記1で述べた通り、原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」を補充(穴埋め)するための上位規範として、「健康に対する権利」を保障した社会権規約をはじめとする国際人権法が極めて重要な役割を果たすことも主張してきた。
     ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、国際人権法にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(6)に対し完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

2023年11月30日木曜日

【参考】仙台高裁の異変&国際人権法の力のレジメ(23.11.30)

 以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLでの投稿。

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柳原です。
今、追出し裁判の進行で、ちょっとした異変が発生しています。
以下、それについての報告とコメントです。
本裁判も、もし上告するんだったら、国際人権法の正義を全面的に、先月末に国際人権法の重要性を認知した最高裁にぶつけたい。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     仙台高裁の異変について&国際人権法の力についてのレジメ
Date:     Thu, 30 Nov 2023 12:50:56 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>

皆さんへ

柳原です。

少し振り返りの投稿です。
福島地裁の裁判官忌避申立のとき、仙台高裁が却下決定を出すや、決定の到着後の1週間後に、福島地裁から判決言渡しの通知がありました。
これが民訴法に違反する行為であることは裁判所も分かってやってるわけですが、

もし今回、それと同じようにやったら、つまり
仙台高裁が却下決定を出したら決定の到着後の1週間後に判決言渡しの通知をするなら、
10月16日に決定が到着したので、10月23日には判決言渡しの通知があってもおかしくない。
事実、仙台高裁の裁判長は一日も早く本件のケリを付けたくて、一発結審を強行したのだから、忌避手続もテキパキとやらないと首尾一貫しない。

ところが、ここに来て、その態度が完全に矛盾、おかしくなった。
強硬派の仙台高裁は急に沈黙に入った。なぜなのか。

考えられる唯一の理由は国際人権法の力、国際世論の圧力です。
なぜなら、先月下旬、最高裁自らが国際人権法の観点から法律の違憲を下しました(性別の取扱いの変更要件の一部を違憲無効とした2023年10月25日最高裁大法廷判決)。
私は、この決定を「令和の黒船」と呼びました。そして、それについて、先週、或る会合で喋る機会を与えて貰ったので、レジメを沿って話しました(参考までに添付します>こちら)。
また、今日の日経の黒田元日銀総裁の私の履歴書最終回でも、彼は、自分の今後のテーマについて国際法とくに国際人権法を挙げ、碧海純一がやったような、法哲学的な根拠付けが必要だと力説しているくらいです。

テーマとして、国際法秩序の法哲学的な基礎を探究しようとも思っている。東京大学の碧海(あおみ)純一教授の下で勉強した時から、ずっと気になっていた。

国内法は各国の憲法のもとに整然とした法秩序がある一方、憲法の根拠は様々だ。自然法、観念的な規範、あるいは現実にない全国民参加の憲法制定会議と、違いがある。

一 方の国際法秩序は主権国家による明文の合意か暗黙の合意に基づく。強固にみえるが、近年は主権国家だけでなく、国民の権利や義務を定めるものが増えた。


「国際人権法が311後の日本社会を変える」という見通しが、ここにも仙台高裁の沈黙に既にハッキリ示されているではないか、というのが私の率直な感想です。

「国際人権法が311後の日本社会を変える」

2023年8月11日金曜日

【振り返り】311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(23.8.11)

 以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLでの投稿。

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井戸さんへ

柳原です。

昨日、避難者の追い出し裁判の検討をする中で「法の欠缺」問題の重要性を再発見することがあり、それで、6年前のこちらの裁判の弁護団会議のことが思い出されたので、それについてコメントさせて下さい。

今、デスクトップPCが電源ユニット不具合のため使えず、それで記憶に頼って書いてるのですが、確か2017年の連休前に弁護団会議をやった時、井戸さんが、被告基礎自治体の義務についてという副題の準備書面(32)の草案を書いて説明してくれました。
一通り聞き終わった弁護団は、その書面の衝撃にしばらく声を上げることが出来ずにいて、
おもむろに、私から、「これ、記者会見すべきなんじゃない?」ともっと威張ったらいいんじゃないのという感じで言ったら、謙虚な井戸さんから、笑いながら「いや、いや」とやんわり拒否されました。それが「法の欠缺」を初めて取り上げて、「7千倍の学校環境衛生基準問題」を主張したときのことです。
そのとき、私が井戸さんに、「どうやって、こんな凄いことを思いついたの?」と人の家に土足に踏み込むようなえげつない質問をしたら、「いやいや、『/放射能汚染/防止法』//を提唱している札幌の山本弁護士の本を読んで、ヒントをもらったんだ」とあっさり、種明かしまでしてくれました。
尤も、この時の準備書面(32)は「7千倍」までは主張しておらず、最終準備書面の冒頭で、350倍という主張をしたんですね(1mSVに対して)。

しかし、記者会見こそしなかったものの、一審では準備書面(32)はもとより、その後も最終準備書面で「7千倍の学校環境衛生基準問題」の重要性を思い切り強調して主張したのに対し、一審判決は、この問題に正面から何一つ答えることなく、コソコソというより、堂々と無視して、裁量論の土俵の中で、20mSv基準を裁量の範囲内だとして適法のお墨付きを与えました。

その判決の卑劣さに対する無念さを、判決言渡し直後、井戸さんは次のように吐露しました。(>元情報)

ここでは、原子力法制の価値判断と日本国憲法下の環境法制の価値判断が正面からぶつかります。環境法においては(学校環境衛生基準も同様)は、放射性物質のような閾値(しきいち)のない毒物の環境基準は、生涯その毒物に晒された場合における健康被害が10万人に1人となるように定められています。それが環境法の価値観なのです。これに対し、原子力法制下で一般公衆の被ばく限度とされている「年1ミリシーベルト」は、生涯(70年間)晒されるとICRPによっても10万人中350人ががん死するレベルです。年20ミリシーベルトであれば、なんと10万人中7000人ががん死します。この決定的な価値観の対立の中で、この判決が原子力法制の価値判断を優先させて採用する理由は、全く示されていません。私たちが最終準備書面において力を入れて書いた論点であるにも関わらずです。

それで、今、振り返るに、この時の一審判決のあくどさ、その悪行の論理構成について、もっと徹底的に突詰めるべきだったと。なぜなら、あのときの遠藤裁判長は、裁判官室という楽屋裏で、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」をどうやって始末するか、それで大汗をかきながら、一世一代の猿芝居を演じることにしたからです。
だから、我々としては、このとき、準備書面(32)で初めて指摘した「法の欠缺」状態の発生と、この欠缺の補充作業の必要性と、そして、いかにして補充作業を行うかという補充作業の方法論について、徹底的に解明すべきだった。なぜなら、一審判決は「法の欠缺」問題に脚を踏み入れるのをまるで地雷を踏むかのように徹底して恐れまくり、一歩も近付こうとしなかったからです。なぜなら、ひとたび、裁判所を「法の欠缺」問題に引きづり込んだら、判決のあんな一文、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられている」
なんてアンチョコなロジックで一件落着なぞできなかったはずだからです。

尤も、欠缺の補充において、いかにして補充作業を行うかという問題は一義的に解決できない問題ですが、しかし、少なくとも、そこで、「序列論」に従って、当該法律の上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定を踏まえて補充すべきであるという方法論が展開できますから、
そうすれば、所詮、法律レベルでしかない原子力法制の価値判断が、その上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定に反することは出来ず、その1例として、平等原則を持ち出し、子どもの命、健康を守るという最も重要な人権保障ために、有害物質をめぐる環境衛生基準と放射性物質をめぐる環境衛生基準との間に差別を許容する合理的な理由が認められるか?認められないだろうという議論が可能になります。

遠藤裁判長が判決でいきなり持ち出した裁量問題という土俵にそのまま乗ってしまうのではなく、彼が論じたくなくて逃げ回った学校環境衛生基準をめぐる「法の欠缺」問題こそ、我々がその問題の重要性を正しく掬い上げて、準備書面(32)で初めて明らかにした「欠缺の補充」による正しい解決の必要性を、あれで終りにするのではなく、いま、改めて強調し続けるべきではないかと思ったのです。

まとめ。
「7千倍の学校環境衛生基準問題」が、準備書面(32)で初めて明らかにした、「法の欠缺」の認識→「欠缺の補充」の実践という風に正しく解決された時、それは原発事故の救済に関する全ての法律問題の正しい解決の出発点になる。なぜなら、避難者追出し問題をはじめとした原発事故の救済に関する全ての法律問題は、どれも、原発事故を想定していなかった日本の法体系の「法の欠缺」状態の中にあるところ、与党政府がこの問題を「立法的に解決」しようとしない現在、我々に残された手段として、欠缺の正しい補充によるしかないからですが、その際、今述べた「7千倍の学校環境衛生基準問題」の解決がその輝かしいモデルになるからです。
表題の『311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている』というのはそういう意味です。
それくらい、この問題は決定的に重要なんだと、昨日、再発見した次第です。