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2026年6月1日月曜日

【振り返り】子ども脱被ばく裁判(続き5):What time is it ?――311後のゴミ屋敷を人権屋敷に再建するキーワード「国際人権」――(26.2.28)

What time is it ?――311後のゴミ屋敷を人権屋敷に再建するキーワード「国際人権」――

1、はじめに

この質問はチャップリンの映画「独裁者」の冒頭に出てくるセリフです。戦場で、兵士チャップリンが上官と雲の中を飛行中、いつの間に飛行機は宙返りとなり、この質問に彼が懐から懐中時計を取り出すと時計の鎖がとび上がってビックリするシーンです。そのシーンが示す通り、答えはあべこべの時代です。このあべこべが現代でも続いている。しかも現代はそのあべこべが前例のないくらい極端なまでに進んだ時代です。なぜなら、現代は311後=原発事故後の社会だからです。原発事故とは何か。それは人類が推し進めてきた科学技術の最先端で登場した、最先端の科学技術がもたらした最先端のカタストロフィー(大惨事)だった。つまり、原発事故は私たちの科学技術の栄華の成れの果ての姿です。その結果、311後の日本社会は原発事故の救済を全面的にネグレクト(放置)する人権侵害のゴミ屋敷となった。そこでは、原発事故を起こした加害者たちは救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される、あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる、狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされるというあべこべが出現したからです。このあべこべをただすこと、それが311後の最大の法律問題となりました。それに挑戦したのがこの裁判です。その際のキーワードは世界の良識=国際人権でした。なぜなら、311後の日本は「世界の常識が日本の非常識、日本の常識が世界の非常識」の社会であり、日本社会のあべこべをただす力は世界の常識の中にしかないからです。但し、この意味は国内に引きこもる限り分からない。国外にさらされてみて初めて見えてくる。以下、国外に立ってみて見えてきたことを記したものです。


2、日本が世界の良識=国際人権と最も緊張関係を保った時代

それは大正14年(1925年)頃です。この年、民法の不法行為で従来の解釈を根底から覆す画期的な判決が出た。それが大学湯事件大審院判決(>全文)で、不法行為が成立するのは民法に書かれた「権利」の侵害に限らない、「法律上保護される利益」も含まれると言い、社会生活の現実を踏まえて法律を再構成する態度に出たからです。この判決は当時、世界を席巻していた、法律を形式的、論理的に解釈すれば足りるとする従来の支配的な見解「概念法学」を根底から否定し、法律は何よりも第1に現実の社会生活に奉仕する「生きた法」でなくてはならないという「自由法論」=国際人権に深く影響を受けて書かれた判決でした(1)。このあと、末川博、末弘厳太郎らが法学界を「自由法論」で塗り替えていった。つまり、大正期から戦中の末川らが弾圧されるまでの間が、日本が世界の良識=国際人権と最も緊張関係を保った時代でした。しかしその後、敗戦後の復興期を通じても、日本は世界の良識=国際人権から距離を置き、国内に引きこもる閉じた国となったのです。

1)
末弘厳太郎の評価
国の不法行為法上頗る注目に値すべき画時代的の重要なる判例なり‥‥唯判決の提唱する『吾人ノ法律観念』なる標準が甚だ不明確なるが為め多少法的安全を害する虞は無論あるけれども,此点の心配は今後此の新しい見地から出発した多数の判例が繰り返さるるに伴つて漸次減少除去せらるるに違ひないのであつて,吾人は今日法的不安を恐れるよりは寧ろ問題が新に正しい出発点に置かれたことを心から祝福したいのである(末弘「判批」民事法判例研究会編『判例民事法 大正十四年度』(昭和2[1927]年,有斐閣)527頁)。


3、再び、世界の良識=国際人権との緊張関係が問われた時代

しかし、福島原発事故は21世紀の黒船として閉じた国=日本社会を震撼しました。日本の法体系は原発事故を想定しておらず、備えがなかったからです。つまり原発事故の救済について、日本の法体系は法の穴(法律用語で欠缺〔けんけつ〕)状態にあった。最初、それに最もうろたえたのは日本政府でした。福島県の子どもたちの集団避難が現実の問題となっていたからです。彼らはそれを阻止するために日本の法体系を血眼になって探したけれど、原災法も含めて使える法律が見つからなかった。そこで、苦の策として世界に出るしかなく、ICRPのお見舞い勧告を使って、文科省の20mSv通知を出した。この時、日本政府は、日本の法体系が「法の穴」状態にあり、その穴埋めを彼らが望む国際ルールとの関係の中でするほかないことを強烈に意識したのです。その次に、この難問に直面したのが文科省の20mSv通知に抵抗して、福島県の子どもたちの集団避難を求めた「ふくしま集団疎開裁判」でした。原告らもまた、日本政府と同様、日本の法体系の中に「彼らの集団避難」を裏付ける法律を見つけることが出来なかったからです。避難の権利を明文化したチェルノブイリ法があったけれども、条約ではないため、裁判の規範として使えなかった。3番目にこの難問に直面したのがこの裁判でした。ここでもまた、原告らは日本の法体系の中に「福島県の子どもたちが被ばくしないで教育を受けること」を裏付ける法律を見つけることが出来なかった。そこで手探りの中、無意識のうちに復活したのが社会生活の現実を踏まえて「生きた法」を発見するという百年前の「自由法論」だった。つまり、低線量内部被ばくの放射能による健康被害という現実を踏まえて、「生きた法」を再構成していったら、原告らの主張が認められるのは当然であるという論法でした。同時に、「法の穴」を埋める具体的な法理として、民間団体のICRPのお見舞い勧告ではなく、法律の上位規範である国際人権法として自己決定権と健康への権利用いられるべきであったことは「法の欠缺――法律の危機――」で述べた通りです。

【振り返り】子ども脱被ばく裁判(続き4):一審判決の評価――肩透かし・不意打ち判決――(25.8.31)

一審判決の評価――肩透かし・不意打ち判決――

1、あべこべを根本からただそうとした裁判

2021年3月。当時、1つだけ確信を持って言えることがありました。それは――311から10年が経過し「私たちは今、どこにいるのか?どこに行くのか?」と問うた時、その答えは子ども脱被ばく裁判の中にあると。なぜなら、福島原発事故は日本史上最悪の未曾有の過酷事故であり、事故の被ばくにより多くの子ども・市民の命、健康が前代未聞の危機に陥った時、事故発生の張本人の1人である日本政府は事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、その結果、多くの子ども・市民に無用な被ばくをさせ、未曾有の危機を招いた。この国家の犯罪の法的責任を真正面から問うた裁判が子ども脱被ばく裁判だからである。言い換えると、311後に出現した、
・子どもの命・人権を守るはずの文科省が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」と声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害され、
・密猟者が狩場の番人を盗人が警察官を演じる、狂気が正気とされ正気が狂気扱いされる、
「異常が正常とされ、正常が風評被害、異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとした、原発事故に関する「世界で最初の裁判」だからです。

2、逃げる司法と闇討ちを食らった私たち

 これに対し、一審裁判所はどう答えたか。原告の全面敗訴でもって回答しました。

(1)、私たちの主張の肝は事実問題で勝負すること、すなわち311後に出現した「事実の危機」=放射能による低線量被ばく及び内部被ばくの危険性を正面から取り上げ、その危険性から被災地の子どもたちや市民の救済の必要性を引き出したのです。しかし、裁判所はこの事実問題に立ち入らず、そこから逃亡しました。その上で、裁判所は問題の決着を法律問題でつける(なぜならここなら理屈をこねて勝負できるから)という肩透かしと不意打ちに出たのです。その理屈とは次のようなものでした。

(2)、第1の子ども裁判で、私たちが主張したのは小中学校の学校設置者である被告基礎自治体は就学する児童生徒に対し「安全な環境で教育を実施する義務」を負っており、憲法等に由来するこの安全配慮義務に基づいて教育を実施せよ(具体的には現に通学している学施設で教育を実施することの差止)を求めたのに対し、裁判所は、わざわざ安全確保の義務の程度がより低い、法律関係のない当事者間における「人格権に基づく妨害排除請求権」を取り上げて検討し、その要件である「具体的危険」がないと判断、かつ「学校環境衛生基準に放射性物質についての定めが置かれていないが、その具体的な措置については、学校の保健安全に関する教育委員会の専門的かつ合理的な裁量に委ねられている。」として現在の学校環境で教育を実施していることに裁量権の逸脱、濫用はないと結論づけました。そこから肝心の安全配慮義務についても、安全確保の義務の程度がより低い「人格権に基づく妨害排除請求権」と同様であると決め付けて、だから安全配慮義務違反もないと、つまり原告の主張は認められないと拒絶法学[1]のお手本を示しました。

 もともと安全確保義務のレベルの異なる「人格権に基づく」場合と「安全配慮義務に基づく」場合の2つをどうして同じレベルのように扱ってよいのかその理由も示さず、なおかつ放射性物質について学校環境衛生基準が定めていなかった「法の欠缺」状態に対して、正しく「欠缺の補充」をするのではなく、行政の自由裁量に委ねてよいと決め付けて原告を負かせたのです。

(3)、第2の親子裁判ではこの行政の自由裁量論が全面開花し、SPEEDI情報等の隠蔽も、安定ヨウ素剤投与指標の定めも配布しなかったことも、いわゆる20mSv/年の文科省通知も、福島県の学校再開の判断も、国が集団避難させなかったことも、それらについて国内法に別段の定めがないが、その法の欠缺部分は行政(国・自治体)の「専門的かつ合理的な裁量」「適切な裁量」に委ねられているとして、行政がとった措置は不合理とはいえないと判断し裁量権の逸脱濫用を否定し、私たちの主張(国賠法上の違法)をことごとく否定しました。法の欠缺部分を補充しないまま行政の裁量判断をすることがなぜ許されるのか、その根本問題には一言も応答せず、その一方で市民の要求はバッサリ拒絶するという、まさに拒絶法学の金字塔が「行政裁量論」であること[2]を遺憾なく発揮した瞬間でした。しかし、判決の決め手となったこの「行政裁量論」は一審で一度も議論されたことがなく、判決でいきなり決まり手として登場し、私たちは闇討ち、不意打ちを食らったのでした。

(3)欠くべからざる前提問題からの逃亡

 本裁判を正しく裁くためには、以下の前提問題について吟味検討することが不可欠、それどころかこの前提問題で殆ど勝負の行方が決まるほどでした。しかし、この重要論点についても、裁判所はこれを無視するか、私たちの主張を理由もなく退けたのです(なぜなら、もしこれらと正面から向き合ったら私たちを敗訴にできなかったから)。

①.国、福島県は県民が被った初期被ばく線量の直接計測を回避し、その一方で、いわゆる100Sv以下安全論を喧伝したこと。

②.UNSCEARICRP等の国際機関による合意(国際的合意)なるものの不確実性(限界)や反中立性に十分注視する必要があること。 

③.子どもの放射線感受性は、大人よりも顕著に高いこと。

④.放射線感受性に顕著な個人差があること。

⑤.被ばくは可能な限り避けるべきこと。

⑥.子ども裁判被告らの裁量権行使が適切だったか否かをICRP2007年勧告に基づいて判断した原判決のやり方は誤りであること。

3、追跡する原告

 以上が闇討ちを食らわし逃げる一審判決の正体でした。それゆえ、逃げる一審判決を追いかける私たちの目標は、第1に法の欠缺部分を行政の裁量に委ねて一丁上がりとした一審判決に対し、正しく「欠缺の補充」を行なうこと(本命の「行政の裁量判断に対する司法審査」の前提条件を準備するため)。第2に、その上で、本件は法の欠缺を国会が立法的に解決しない以上、司法が行政の裁量判断に積極的に審査すべき場面であり、そのためには、行政の判断過程で法が保障する権利・法的利益に対する考慮が尽くされているか、権利・法的利益同士の衝突を調整する手段・方法の探究に対する考慮が尽くされているかなど要考慮事項や他事考慮事項を審理する「判断過程審査」を実行することでした。

4、結論

 このようにして、一審判決の誤りを審査する二審の審理は、一審の「事実論(科学論争)」から一転して以上の「法律論(法の欠缺論・行政裁量論)」にシフトしたのです。

以 上 

 

 



[1] 明治以来の日本の大学の法学教育のエッセンスで、将来、役人や裁判官になる法学生達に市民の要求を蹴っ飛ばす(拒絶する)ための屁理屈を教え、身に付けさせて、市民の要求をことごとく退けて、諦めさせること。末弘厳太郎が戒能通孝に語ったという。

[2]行政が何をしようが、市民に「違法だ!」と文句を言わせないロジックだからです。

【振り返り】子ども脱被ばく裁判(続き3):行政裁量論――拒絶法学 の金字塔と君子豹変す――(25.8.31)

行政裁量論――拒絶法学[1]の金字塔と君子豹変す――

1、二審のメインテーマ

 拒絶法学の金字塔「行政の処置はいずれも適切な裁量の範囲内であり、裁量権の逸脱濫用はない」という一審判決の決めゼリフを受けて、二審のメインテーマは行政裁量論となりました。当初、二審の裁判長は行政裁量論に関する私たちの主張に好意的で、一審判決が不意打ちだった分、この論点でとことん議論しようという姿勢を示しました。しかし、のちに裁判長の君子豹変によりこの検討は挫折してしまいました。

2、裁量判断とは

行政の仕事は国会が制定した法律を執行することです。行政が法律を執行する過程で執行者に自己決定の余地を与えられている場合を行政裁量といいます。本裁判で問題となった基礎自治体の教育委員が小中学校の保健安全を具体化する措置、国のSPEEDI情報等の提供、安定ヨウ素剤投与指標を定めること、安定ヨウ素剤の配布、いわゆる20mSv/年の文科省通知、福島県の学校再開の判断、国の集団避難の処置、山下俊一の講演はいずれも執行者に自己決定の余地を与えられている裁量行為だとして、それが「法律の許容する範囲」を超えた違法な裁量行為ではないかどうかが問われたのです。

本件で行政の裁量判断を司法が「正しく」審査するためには、通常の審査にはない「前例のない新しい」困難がありました。それが「前例のない法の欠缺」状態の発生でした。

3、「前例のない法の欠缺」の補充と司法の審査

 ○、法の欠缺で前述した通り、本件は「前例のない法の欠缺」状態が発生しました。そのため、この空前の状況のもとで国や自治体は「法律の許容する範囲」で適法な裁量判断をする必要がありました。それは通常の裁量判断にはない困難をもたらしました。なぜなら「前例のない法の欠缺」状態が発生したために、「法律の許容する範囲」もまた穴(欠缺)状態になったからです。この問題を解決するためには欠けている法律を補充する必要がありました。「欠缺の補充」です。しかもただ補充すればいいのではなく、「正しく」補充する必要がありました(「正しい」補充のやり方は○、法の欠缺参照)。以上の作業は行政の裁量判断の場合だけでなく、司法が裁量判断を審査する場合も同様です。さらに司法は、以上の作業を済ませたのち、次に本件の裁量判断について「正しい」審査を行なうために「判断過程審査[2]」というやり方を実行する必要がありました。

4、「判断過程審査」(一般論)

(1)、それは行政の裁量判断の「判断過程」の各局面ごとに①どのような裁量があるか、②どのような過誤があるのかを個別具体的に明らかにして審査するものです。

(2)「判断過程」の各局面ごとの審査
①.当該案件をいかに処置すべきかを検討・判断するために、当該案件の構成要素の事実を調査に基づき認定。この局面で、調査義務違反、経験則違反が問題となります。

②.当該案件に適用すべき基準(具体的裁量基準)の認定。基準の正しい認定の過誤が問題となります。

③.①で得られた事実を②で得られた基準に当てはめて処置を決定。ここで、()、事実の基準への適用。基準の正しい適用の過誤が問題となる。次に()、いかなる処置をするかの選択(処置の選択)。処置の正しい選択の過誤が問題となります。

5、「判断過程審査」(子ども裁判)

一例として、以下の表は311後の学校教育現場での具体的な安全確保義務の実行について、基礎自治体の「判断過程」の各局面ごとに検討した結果を一覧表にしたものです。

 

各局面

判断過程の過誤

(具体論)

本件の検討
(学校教育現場での安全確保義務)

事実認定の過誤

(a)、調査義務違反
事実認定に必要な調査を尽くしていない場合=裁量基準の構成要素に当てはめる事実を認定するために必要な証拠(資料)を収集したか。

調査を尽くしていなかった。
その1つが「法の欠缺」状態にある放射性物質の学校環境衛生基準について、放射性物質を環境基本法の規制の対象に組み込んだ2012年環境基本法改正とそれに対応する放射性物質の環境基準の設定(その不履行)及びこのような事態における「法の欠缺」状態の補充の方法等が必要な調査であり、これらの調査を尽くしていなかった。

(b)、収集した証拠から事実を認定するにあたって、適正な評価をしていない場合(経験則違反)

適正な評価をしなかった。仮に放射性物質の学校環境衛生基準について必要な調査を尽くしていたとしても、「法の欠缺」状態にある放射性物質の学校環境衛生基準について、条理等によって補充するという適正・必要な評価をしなかった。

(c)、収集した証拠からいかなる事実が認定されるか。

その結果、「放射性物質の学校環境衛生基準は追加線量年2.9μSvである」という結論を引き出さなかった。

基準(具体的裁量基準)の認定の過誤

(a)、要考慮事項を正しく認定していない場合

(1)、「被ばくの危険のない安全な環境で教育を受ける子どもたちの人権を保障」は最大の考慮事項である。これを具体化した以下の事項も最大の要考慮事項の1つである。①「放射性物質の学校環境衛生基準」②セシウム含有不溶性放射性微粒子による内部被ばく問題。にもかかわらず基礎自治体はこれらを要考慮事項として認定しなかった。

(b)、考慮禁止事項を正しく認定していない場合

人権侵害を肯定する「福島県内の子どもたちを集団避難させないこと」は考慮禁止事項であるにもかかわらず、これを要考慮事項として認定した

基準の適用の過誤

(a)、事実を基準に当てはめる際に、考慮事項について正しく考慮していない場合(考慮事項の過小考慮または過大考慮)本件は「過小考慮」という過誤

(1)「被ばくの危険のない安全な環境で教育を受ける子どもたちの人権を保障」という要考慮事項を極めて軽視している。なぜなら学校施設の汚染データを年追加線量2.9μSvという放射性物質の学校環境衛生基準」に当てはめていないから。
(2)
、「セシウム含有不溶性放射性微粒子による内部被ばく問題」という要考慮事項も全く若しくは殆ど考慮していない。

(b)、事実を基準に当てはめる際に、要考慮事項相互の比較衡量を適切にしていない場合
とりわけ行政庁の処置によりもたらされる公共の利益、処置決定に至るまでの経緯、処置により損なわれる私的ないし公共的価値等の諸要素、諸価値の比較衡量に基づく総合判断として行なわるべきものが適切にしていない場合。

(1)、比較衡量の誤り
本件はどの施設で教育を実施するかが問われているもので、教育を実施するか否かが問われているのではないから、基礎自治体の処置によりもたらされる公共の利益というものは格別存在しない。よって、処置により損なわれる恐れのある「被ばくの危険のない安全な環境で教育を受ける子どもたちの人権」の利益だけを考慮すれば足りる。

(2)、諸要素、諸価値の総合判断
複数の考慮事項が並存する場合、裁量判断の違法性の有無は、これらの事項の比較衡量に基づく総合判断として行われるべきものであって、これらの事項から一つを単独で取り出して、それのみをもって違法か否かの判断をしてはならない。

() (c)、事実を基準に当てはめる際に、考慮禁止事項について正しく考慮していない場合

考慮禁止事項である「福島県内の子どもたちを集団避難させないこと」を要考慮事項として扱い、なおかつ最大限の考慮を払うという重大な誤りをおかした。

() (a)、いかなる処置をするかの選択の基準に反して選択をした場合[3]

「最善の選択」の形成のため代替案の比較検討を一つもしなかった(もししたというのであれば、基礎自治体から主張立証すべきである)

6、二審判決の誤り

本件では基礎自治体の「判断過程」において、上記表記載の看過し難い過誤が認められ、それらを総合判断した結果、基礎自治体が原告らが現に通学している学校施設で教育を実施したことは裁量権の逸脱・濫用と言わざるを得ず、違法を免れません。にもかかわらず、二審判決は誤ってこれを裁量権の逸脱・濫用ではないと判断しました。

7.「判断過程」の事案解明の実現

 上記表のうち行政の「調査義務違反」の有無、「要考慮事項相互の比較衡量」、「代替案の比較検討」などは行政が自ら主張しない限り、「判断過程」の過誤の解明は果たされず、裁量権の逸脱・濫用か否かの判断も出来ません。しかし、原告らの強い求めにもにもかかわらず、二審裁判所は全ての論点で「判断過程」の事案解明を放棄したのです。つまり、この時点で裁判所は君子豹変し、行政追認の司法消極主義に転じ、逃げ込んでしまった。

以 上

 

 

 



[1] その意味は○、一審判決の評価、2の脚注1と脚注2を参照。

[2] それは司法消極主義と司法積極主義の適切な使い分けをした、処分の「手続」に着目した審査方式のことで、近時の最高裁の審査方式です。

[3] とりわけ「最善の選択」の形成のため代替案の比較検討をしなかった場合たとえその比較検討をしても「最善の選択」の形成のために尽くすべき考慮を尽くさなかった場合。

【振り返り】子ども脱被ばく裁判(続き2):法の欠缺――法律の危機――(25.8.31)

法の欠缺――法律の危機――

1、法律の危機の気づき

311後に出現したのは事実の危機です。それは東日本壊滅を覚悟した吉田昌郎所長の証言だけでも明らかでした。しかし危機は事実だけでなかった。法律もまた危機に瀕したのです。ただし、それは見えない危機だった。数学史でゼロの発見が容易でなかったように、見えないものを見るという困難を伴い、そこに気がつくことは容易でなかった。

しかしこの気づきは思いがけない形で訪れた。私たちに法律の危機を気づかせてくれたのは私たちが全面敗北した一審判決でした。1つ前の裁判(ふくしま集団疎開裁判)の経験から学んで、一審で私たちは、正攻法で、311後に出現した「事実の危機」を正面から全面的に取り上げ、この危機に相応しい措置を取らなかった被告国らの行為は違法を免れないと主張しました。しかし、裁判所は私たちの主張を散々に蹴散らした。その蹴散らし方の肝は、「事実の危機」を否定したのではなくて、311後に出現した「法律の危機(穴・空洞)」は行政の自由裁量で処理すれば足りるという点にあった。しかも、行政の広大な権限の全肯定とも言うべき判決の自由裁量論は一審で一度も審議されたことのない論点でした。この闇討ちの判決を前にして、どうやってこのような行政の独裁権力が導き出されたのか途方に暮れました。暗中模索の中から、裁判所が「法律の危機」を前にして、彼らなりにこの危機を乗り越える方法(それは行政の自由裁量論と司法消極主義いう間違った方法)で対処したことに気がつきました。この時、裁判所が向き合った「法律の危機」が全面的な「法の欠缺」の発生というものでした。

2、なぜ全面的な「法の欠缺」が発生したのか 

 一言でそれは、「自然現象」としての福島原発事故と「社会現象」としての福島原発事故との間で「前例のないズレ・亀裂」が発生したからです。「自然現象」としての福島原発事故は、空間的には一国家・欧州世界が絶滅寸前となるような、時間的にはまるで毎日毎日事故が起きているかのような、災害として前例のない規模であるのに対し、対する「社会現象」としての福島原発事故は311まで日本には原発事故は起きないという安全神話の中にいて、原発事故に対する法の具体的な備えは皆無であり、対策は従来の災害の枠組みのままでした。つまり、「自然現象」は従来の災害の枠組みでは捉え切れない「前例のない新しさ」、他方の「社会現象」は従来の災害の救済の枠組みを踏襲する「前例しかない古さ」。その結果が被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」の発生。これが全面的な「法の欠缺」の発生というものでした。

3、全面的な「法の欠缺」の発生が意味すること
 全面的な「法の欠缺」の発生がもたらした最大のものは、本来、原発事故で救済されるべき人々が救済されず、打ち捨てられること=「被災者の前例のない放置・ネグレクト」の発生です。そこから、子ども脱被ばく裁判の目的が、すなわち「被災者の前例のない放置・ネグレクト」の状態をただし、本来の救済を回復するという目的が導かれました。
 これに対する一審判決の応答は、結局、原告らは上記の「本来、原発事故で救済されるべき人々」に該当しないということでした。つまり裁判所は、国、自治体の取った措置は行政の自由裁量の範囲内のことであり適法である、その結果、原告らはもともと原告が求める「本来、原発事故で救済されるべき人々」には該当しない、だから、国、自治体の取った措置で原告らは別に「放置・ネグレクト」されたわけではないと。

 では、果して、原告らは、原告が求める「本来、原発事故で救済されるべき人々」ではないのでしょうか。違います。次の4つの正義が原告らが「本来、原発事故で救済されるべき人々」であることを証明するからです。

①.      司法が忘れられた人権の原点を再発見

②.      司法が「正しく」一歩前に出る

③.      司法が「正しく」法の欠缺を補充する

④.司法が「正しく」行政の裁量判断を審査する

4、司法が、忘れられた人権の原点を再発見すること

人権は、人が人として生まれながらにして持つ権利、誕生から死に至るまで、どんなことが あろうとも、どこにいようとも、一瞬たりとも途切れることなく、切れ目なく保障されるもの――これが人権の原点です。だとしたら、人権は、原発事故が起きようが起きまいと切れ目なく保障されるもの。原発事故が発生したからといって被災者は一瞬たりとも人権を喪失しない。他方、国家も人権保障を実行する義務を一瞬たりとも免れない。これが人権の原点です。しかるに、福島原発事故後の政府の態度は詰る所以下の通りでした。

第1に、被災者に政府の指示通りに行動することを求める。さもないと恩恵も施しもない。

第2に、「人権とは誕生から死に至るまでどんなことがあろうとも、どこにいようとも一瞬たりとも途切れることなく、切れ目なく保障されるもの」この人権の原点は忘れ去られた。

第3に、被災者に恩恵を施すのも終了するのもすべて政府の腹ひとつ、政府の考え次第。

そこで今、「人権の最後の砦」とされる司法に求められることは、人権の原点をもう一度、発見することでした。

5、司法が「正しく」一歩前に出ること

もともと司法には司法消極主義と司法積極主義があり、これは政治・政策不介入主義と人権介入主義と言い換えられる。その意味は、政治・政策の問題はほんらい立法・行政の民主主義的な政治過程を通じて是正・解決すべきものとされ(これが司法消極主義)、他方で、司法は「人権の最後の砦」として出番の時がある(この時が司法積極主義)。

 この2つの主義の適切な使い分けを示したのがカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4[1]。これによれば、政治・政策がらみの紛争において司法消極主義が正当化されるのはそれが「民主主義の政治過程」を通じて解決されることが期待されるから。従って、もし「民主主義の政治過程」が機能不全に陥り、人権侵害が発生した場合にはもはや司法消極主義は正当化されず、そこで、司法積極主義によって人権侵害を回復する必要があると。

 本件で、福島原発事故の被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」=全面的な「法の欠缺」が発生し、そのズレが立法により解決されないとき、それは「民主主義の政治過程」が機能不全に陥った場合です。そのとき、司法が「人権の最後の砦」として一歩前に出て、「司法積極主義」を実行し、人権侵害を回復することが「正しい」司法の姿です。本裁判は、以上の忘れられた人権の原点と司法が一歩前に出ることを踏まえて、司法が「正しく」法の欠缺を補充することが求められたのです。

6、司法が「正しく」法の欠缺を補充すること

(1)、「法の欠缺」とは現実の紛争事実に対して、法律から具体的な判断基準が直接引き出せない場合のことです。

本件は、福島原発事故の被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」が発生し、原発事故の救済に関して全面的な「法の欠缺」状態が発生した。しかも、特定の出来事についての「法の欠缺」ではなく、原発事故の救済についての全面的な「法の欠缺」の発生。つまり、「前例のない法の欠缺」状態が発生したのです。

(2)、本裁判の「前例のない新しさ」とは、この裁判で「前例のない法の欠缺」状態が発生し、この問題を正しく解決することが問われたという意味です。

では、「法の欠缺の正しい解決」は何を意味するか。それは次のことを意味します。

第1に「法の欠缺」は放置できない。つまり、その欠缺を補充する必要があるということ。

それは司法の大原則である「法による裁判」からの帰結です。つまり、裁判は法に基づき、法を適用して行なうもの。そこでもし「法の欠缺」の場合、司法は欠缺を補充して初めて「法による裁判」が実行可能になるからです。

第2に「欠缺の補充」は司法の避けて通れない作業だとしても、司法が裁量で自由にやってよいことではなくて、正しく行なう必要のある「法規範」の問題です。従って、全面的な「法の欠缺」状態が発生した本件では「正しく」法の欠缺を補充する必要があります。

(3)次の問題は、どういう方法で法の欠缺を補充するのが正しいかです。思うに、我妻栄の学問的出発点となった論文「私法の方法論に関する一考察」に基づいて次のことを実行するのが適切です。

①.まず「現実の社会生活」の実相・実態を探求し、精確に確定すること。

②.次に、法律によって実現すべき理想である現時点の新しい倫理観念を探求し、明らかにすること。
③.①で確定した事実を②の法律の理想に従って処理するにあたり、法律的に構成し直すことを探求し、明らかにすること。

④.その上で、構成し直した法を「欠缺」部分に補充する。

つまり、「欠缺の補充」を正しく実行するためには、事実も理念も法律構成も新しいそれを探求し、明らかにする必要があります。以下、順番に述べます。

(4)第1が「新しい事実」の探求。それは次の「原発事故」という未曾有の大災害の実相・実態のことです。

ア、被害の桁違いのスケールとして空間的広がりと時間的広がり。

イ.被害の質的深刻さとして、①.内部被ばくや②.セシウム含有不溶性放射性微粒子の再浮遊による健康被害のリスクなど。

(5)、第2が「新しい理念」の探求。それは従来の災害とは質的に異なる、原発事故の大災害に対し被災者の命、健康および居住・暮らしを守るという理念とそれを具体化した以下のことです。
ア、国内法として、①.公害国会で導入された調和条項の排除と生命・健康・暮らしの最優先や②.生命・健康・暮らしを守るため、放射能汚染からの避難。

イ、国際人権法として、自己決定権と健康への権利[2]

(6)、第3が「新しい法律構成」の探求。それが序列論(上位規範適合解釈)の応用。もともと法体系が体系として全体の秩序が保たれているのは上下関係において下位の法は上位の法に基いて制定されたからであり、それゆえ上位の法に「適合」すると認められているからです(序列論)。従って、法の欠缺が発生した場合にその欠缺を補充するのは、その欠缺部分を制定することにひとしい意味を持ちます。そこで、欠缺の補充のやり方も、制定行為と同様に、その上位の法に「適合」するように補充するのが最も適切です。 

そこで問題は、本件で、欠缺の補充において、序列論の上位規範としていかなる法規範を用いるのが正しいかです。原発事故のような大災害に対して被災者の命、健康および居住・暮らしを守るという理念を具体化した法規範は憲法ばかりではなく、それは国際人権法の中に容易に見出せます。本件においてそれは、自己決定権を定めた自由権規約第1条・社会権規約第1条。健康への権利を定めた社会権規約第12条[3]です。

7、結論

 以上の通り、本裁判では、原発事故の救済に関する国内法の「法の欠缺」部分は国際人権法の自己決定権や健康への権利の上位規範に基づいて補充される必要があり、それを実行したとき行政(国・自治体)はこの「欠缺が補充」された法規範に沿って果たすべき措置が何であるのかが明らかにされます。その結果、国・自治体が現実に行なった措置がそこで明らかにされた措置から逸脱した違法なものであることが証明されたのです。

以 上



[1] アメリカ連邦最高裁判所のストーン元判事が1938年のカロリーヌ事件において述べた司法消極主義の例外に関する意見。司法積極主義の出番を裏付ける重要な文書です。

[2] 単に病気でない状態を指すのではなく、安全な水、衛生、食品、住居等へのアクセス、適切な医療サービスを含む「到達可能な最高水準の身体的および精神的健康」を享受する権利を内容とします。

[3] その詳細は権規約委員会作成の注釈「一般的意見第14」に書かれています。

【振り返り】子ども脱被ばく裁判:山下尋問、鈴木尋問――その楽屋裏――(25.8.31)

 以下は、10年やった子ども脱被ばく裁判の振り返り。ここでは「山下尋問、鈴木尋問――その楽屋裏――」

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山下尋問、鈴木尋問――その楽屋裏――

1、二人の証人尋問に至るまで

 紛争は紛争当事者とその周りの関係者の正体を明るみにするリトマス試験紙です。本裁判でも山下俊一と鈴木眞一という二人の医師の証人尋問をめぐって彼らの正体が明るみにされました。以下、そのささやかな報告です。 

(1)、山下俊一の証人尋問
 それは被告側も最初から覚悟していた。しかし、意外だったのは彼を放射線健康リスク管理アドバイザーとして招へいした福島県が彼の証人尋問に「勝手にやってくれ」と投げやりの態度で、それにあわてた国が福島県に代わって彼の事情を裁判所に必死に説明したことだった。その様子から山下俊一が311直後の福島入りは表向き、福島県や福島県立医大の働きかけとされていたが、真の仕掛け人は国だった。マキャベリはどこかで「君主は聖人である必要はないが、そう見える必要がある」と書いてましたが、山下俊一はそれを地で行く、白衣をまとった政治家のような人物でした。2011年5月3日の二本松市の講演で、質問に立った地元の寺の住職が「本当にここが安全だと言うのであれば、お孫さんを連れてここの砂場で遊んでいただきたい。できますか」と彼に迫った時、「それで私を信じてくれるのならお安い御用、私は是非住職さんとのお約束を守りたいと思います」と言い放った。しかし、それから14年間、彼はその約束を一度も実行しなかった。

(2)、鈴木眞一の証人尋問 

 それに比べ、鈴木眞一の証人尋問は難産でした。山下俊一のような311直後の放言・暴言がある訳でもなかったから。しかし、彼は原発事故による健康被害を象徴する小児甲状腺がんの手術を執刀した主役であり、進行中の小児甲状腺がんの症例を最もよく知る人物として――当時、彼は甲状腺検査の検査責任者から外され、メディアからも完全に隔離されていた――彼の証言が決定的に重要だった。

 ということで、2019年7月、半ばダメもとで彼を証人として申請したところ、意外にも裁判所がこれに乗り気で、「鈴木証人を2回の期日に分けて尋問しては?」とまで口にした。これに驚愕、猛反発したのが国と福島県。すぐさま、彼の証人採用の必要がないことを強調、裁判所が提案した5つの期日に彼は手術等の所用のため全て出廷できない旨のやる気のなさ満々の意見書を次々と提出。対する原告も返す刀で反論書を次々と提出。かくして鈴木証人の採否をめぐる原告被告間の応酬が10月末まで続き、抵抗する福島県の外堀りはじわじわと埋められ、最終的に彼の証人尋問が実現しました。

 実現に至った最大の立役者は裁判所の訴訟指揮だった。このとき、抵抗する福島県に対し裁判長は次の提案で応えました(しかし、彼は後に君主豹変した)。

・鈴木眞一を証人として採用する必要性・重要性は否定できない。
・ただし、普通に証人尋問をやっても真相解明に貢献する有益な尋問になるとは限らない。
・そこで、実りある尋問を実現するために工夫が必要になる、裁判所がこの間検討してきた結果、事前に次のQ&Aを準備することを提案する。
 ①.原告から、予め鈴木に尋問する質問の一覧(Q&A)を提出、
 ②.それに回答するため、福島県は鈴木の陳述書(Q&A)を提出。
 ③.このQ&Aに基づいて本番の証人尋問を実施。

・尋問の方法につき、多忙な鈴木を職場で出張尋問(非公開)の方法もあるが、出張尋問の人数、設備等から、また福島地裁は鈴木の職場とそう遠くないことから、裁判所は公開の法廷で証人尋問を実施したい。
 以上を踏まえて、私たちは鈴木に尋問する質問の一覧書面を提出。これに対し、鈴木は意外なことに私たちの詳細なに詳細なをもって回答、かくして本番の準備が整った。

 ではなぜ裁判所はここまで鈴木眞一の証人尋問に熱心だったのか。ひとつにはそれまでに私たちと福島県との間で甲状腺検査の経過観察問題をめぐる長い応酬があったからです。

2、経過観察問題

 それは311後に福島県で発症した小児甲状腺がんの症例数を隠蔽する問題です。2017年3月、NPO法人「3・11甲状腺がん子ども基金」の会見で、福島県は県民健康調査の甲状腺検査の二次検査で「経過観察」とされた子ども単純合計で2523人(同年2月20日現在)は、その後「悪性ないし悪性疑い」が発見されてもその数を公表していなかった事実、つまり福島県が公表した患者数以外にも未公表の患者がいることが明らかになりました。

これを受け、同年5月、本裁判で私たちは福島県に対し、この症例数を明らかにすることを求めました。「県民の健康を守る」ことを使命とする福島県にとって当然開示すべき情報だからです。しかし、福島県はこれを拒否。理由は、福島県は 『経過観察』中に『悪性ないし悪性疑い』が発見された症例の数を把握していないから。

そこで、私たちは次の2つを再質問しました。

質問1: (1)、症例の数の把握について福島県はこれを把握する義務があると考えているのか?(2)、原告は、福島県にはこの義務があると考え、その根拠を示したので、これに対しても応答せよ。

質問2: 甲状腺検査で「経過観察」となった子どものうち、他の病院はともかく、福島県立医大付属病院で「悪性ないし悪性疑い」が発見された数は福島県は把握しているだろうから、せめてこれだけでも明らかにして欲しい。

これに対し福島県は次の回答をしました。

質問1に対し、(1)、福島県に、症例数を把握する義務はない。 (2)、福島県は、《福島県に症例数を把握する義務がある》とする原告主張とその根拠を全面的に争う。ただし、福島県にこの義務がないとする根拠を示す必要はない(=説明する責任はない)。

質問2に対し、福島県は、これを調査し、明らかにする余地はない。

さらに、私たちは次の質問をしました。

質問3: 鈴木眞一と山下俊一率いる長崎大学が提携して進める研究プロジェクトが上記の症例数を把握しているから、福島県も当然、症例数を把握しているのではないか。

これに対し、福島県は以下の回答をしました。

福島県と鈴木眞一らの研究グループとは別の組織、別の主体であり、福島県はこの研究グループとは何の関わりもない。それゆえ、この研究グループがどんな社会的使命を持ち、どんな目的で、どんな研究をしているか、福島県は知るよしもない。だから、この研究グループが症例数を把握していたとしても、福島県はこれを知るよしもない。

小児甲状腺がんの情報を独占する福島県は、裁判で小児甲状腺がんに関して事案解明の責任を負うにも関わらず、その責任のカケラも果たそうとしません。福島県のこの対応を見て、裁判所は、これは鈴木眞一から直接聞くしかないと証人尋問の必要性を確信したものと思われます。そして、鈴木眞一の次の言葉が最後のトドメになったと思われます。

3、鈴木眞一の言葉

 当時、彼はメディアも接触不可能な象牙の塔の中の人物でした。そこに風穴を開けるため、私たちは彼に面談申込の手紙を書き、そのあと彼の研究室に電話を掛けましたが、電話口の秘書は「手術中で電話に出られません」という居留守の対応。そこで一計を案じ、秘書の勤務時間終了直後を見計らって電話、すると運よく本人が電話口に。このとき、彼が福島県から証人尋問に応じないよう圧力がかけられていることが窺わせる以下のやり取りとなり、その事実を裁判所に伝え、改めて証人尋問の必要性を訴えました。

原告代理人「(面談の申入れを断られ)それでは、この電話で、出張尋問の実施のために貴殿のご都合をお聞かせいただきたい」

鈴木「答えるなと言われています(答えてるじゃないか)。すみません。断っていいと言われていますので、それ以上は申し訳ございません(二度も答えてるじゃないか)」

原告代理人「そこを何とか」

鈴木「私個人では対応できませんので(三度も答えてる)」

4、鈴木眞一と山下俊一の証言記録

 事前に作成したQ&A、当日の尋問の調書はhttps://x.gd/jVf2Tで読むことができます。

5、山下俊一発言の問題点と一審判決の評価

山ほど沢山あるのですが、ここでは特徴的なものだけを紹介します。
(1)
、時間差による山下発言の非科学性のあぶり出し

ふくしま集団疎開裁判の二審に一人踏みとどまった原告のお母さんに「放射能の安全基準をどうやって評価しているか」と質問した時、彼女は「311事故前の基準と比べて評価している」と答えました。事故前との比較、これが本裁判でも事故後の山下俊一発言が科学的知見から逸脱したものかどうかを照らし出す鏡でした。山下は3月20日の記者会見で「この数値(毎時20μSv)で安定ヨウ素剤を今すぐ服用する必要はありません」と断言した。しかし、311前のチェルノブイリ事故直後、ソ連では安定ヨウ素剤は配布されず、そのため多くの子どもたちがのちに甲状腺がん等の病気になったのに対し、隣国ポーランドでは直ちに安定ヨウ素剤を配布したため、子どもの甲状腺がんの発生はゼロだった、この事実を指摘したのは山下俊一その人です[1]
 山下は5月3日の二本松市講演で、「何度もお話しますように、100mSv以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。」と安全性を断言した。しかし、311前、講演で、チェルノブイリ事故について「放射線降下物の影響により‥‥半減期の長いセシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される[2]」、医療被ばくについて「主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません[3]」と低線量被ばくの危険性を指摘したのは山下俊一その人です。

 私たちは311後の山下発言と311前の彼の発言を「比較した時、その正反対とも言うべき矛盾した内容に果して同一人物の発言なのかといぶかざるを得ない」と子どもでも分かる明快な彼の矛盾を突いた。しかし、一審判決はこの明快な主張を全て無視、スルーしてこの問題から逃走したのです。

(2)、山下発言を誰がどう評価するか、という基本問題

 それは昔から、作品の意味を判定するのは作者か読者かという作品論として知られ、現在は作者が決定するのではなく、読む側つまり読者がその意味を決定するという見解が定説です。この定説によれば、山下発言の意味を決定するのは語り手(山下)ではなく、放射能の危険性について専門的知識を持たない聞き手(一般聴衆)です。さらに、311直後、一般聴衆にとって切実なことは、自分が知りたいと思っている問題について山下がどう発言したかという個別具体的な発言であって、山下講演の全体的な評価ではありません。山下講演の個々の発言中に「一つでも不合理な発言」を聞いた一般市民がそこから放射線健康リスクについて「不合理な結論」を引き出し、「すっかり安心して」それまで抱いていた放射能に対する警戒心を解いてしまう恐れがあったかどうか、ここで問題なのです。このような常識的な見解を私たちは主張しました。

 しかし、一審判決は一言も理由も述べずに私たちの主張を蹴っ飛ばし、山下発言の評価は山下本人がどう考えたかで判断すれば足りるとしました。つまり山下は「科学的知見を一般の参加者向けに平易に説明」しようとしたんだから、彼の発言はそう評価すれば足りる、つまり、もっぱら彼の意図を忖度して、彼の発言の「全体」や「前後の文脈」から彼が何を言わんとしたかを評価することが必要だとして、そのように評価すれば彼の発言は「科学的知見から逸脱したもの」とは言えないと判断したのです。

(3)、「37兆分の1過小評価発言」の評価

 「1ミリシーベルトの被ばくをすれば、遺伝子が1つ傷つく」という山下発言について、山下自身が法廷で「37兆分の1過小評価だった」と認めたものですら、一審判決は「前後の文脈を全体的に考慮すれば、いささか当を得ない評価であると言わざるを得ない」と山下自身が感激を抑え切れないほどの過剰擁護の評価を下して、そこから「科学的知見から逸脱した」ことを否定しました。

以 上

 

 



[1]論文「放射線の光と影:世界保健機関の戦略」20093月。537頁左段1行目以下。

[2] 講演「被爆体験を踏まえた我が国の役割」3頁(2000年)

[3] 上記論文543頁左段。