法の欠缺――法律の危機――
1、法律の危機の気づき
311後に出現したのは事実の危機です。それは東日本壊滅を覚悟した吉田昌郎所長の証言だけでも明らかでした。しかし危機は事実だけでなかった。法律もまた危機に瀕したのです。ただし、それは見えない危機だった。数学史でゼロの発見が容易でなかったように、見えないものを見るという困難を伴い、そこに気がつくことは容易でなかった。
しかしこの気づきは思いがけない形で訪れた。私たちに法律の危機を気づかせてくれたのは私たちが全面敗北した一審判決でした。1つ前の裁判(ふくしま集団疎開裁判)の経験から学んで、一審で私たちは、正攻法で、311後に出現した「事実の危機」を正面から全面的に取り上げ、この危機に相応しい措置を取らなかった被告国らの行為は違法を免れないと主張しました。しかし、裁判所は私たちの主張を散々に蹴散らした。その蹴散らし方の肝は、「事実の危機」を否定したのではなくて、311後に出現した「法律の危機(穴・空洞)」は行政の自由裁量で処理すれば足りるという点にあった。しかも、行政の広大な権限の全肯定とも言うべき判決の自由裁量論は一審で一度も審議されたことのない論点でした。この闇討ちの判決を前にして、どうやってこのような行政の独裁権力が導き出されたのか途方に暮れました。暗中模索の中から、裁判所が「法律の危機」を前にして、彼らなりにこの危機を乗り越える方法(それは行政の自由裁量論と司法消極主義いう間違った方法)で対処したことに気がつきました。この時、裁判所が向き合った「法律の危機」が全面的な「法の欠缺」の発生というものでした。
2、なぜ全面的な「法の欠缺」が発生したのか
一言でそれは、「自然現象」としての福島原発事故と「社会現象」としての福島原発事故との間で「前例のないズレ・亀裂」が発生したからです。「自然現象」としての福島原発事故は、空間的には一国家・欧州世界が絶滅寸前となるような、時間的にはまるで毎日毎日事故が起きているかのような、災害として前例のない規模であるのに対し、対する「社会現象」としての福島原発事故は311まで日本には原発事故は起きないという安全神話の中にいて、原発事故に対する法の具体的な備えは皆無であり、対策は従来の災害の枠組みのままでした。つまり、「自然現象」は従来の災害の枠組みでは捉え切れない「前例のない新しさ」、他方の「社会現象」は従来の災害の救済の枠組みを踏襲する「前例しかない古さ」。その結果が被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」の発生。これが全面的な「法の欠缺」の発生というものでした。
3、全面的な「法の欠缺」の発生が意味すること
全面的な「法の欠缺」の発生がもたらした最大のものは、本来、原発事故で救済されるべき人々が救済されず、打ち捨てられること=「被災者の前例のない放置・ネグレクト」の発生です。そこから、子ども脱被ばく裁判の目的が、すなわち「被災者の前例のない放置・ネグレクト」の状態をただし、本来の救済を回復するという目的が導かれました。
これに対する一審判決の応答は、結局、原告らは上記の「本来、原発事故で救済されるべき人々」に該当しないということでした。つまり裁判所は、国、自治体の取った措置は行政の自由裁量の範囲内のことであり適法である、その結果、原告らはもともと原告が求める「本来、原発事故で救済されるべき人々」には該当しない、だから、国、自治体の取った措置で原告らは別に「放置・ネグレクト」されたわけではないと。
では、果して、原告らは、原告が求める「本来、原発事故で救済されるべき人々」ではないのでしょうか。違います。次の4つの正義が原告らが「本来、原発事故で救済されるべき人々」であることを証明するからです。
①. 司法が忘れられた人権の原点を再発見
②. 司法が「正しく」一歩前に出る
③. 司法が「正しく」法の欠缺を補充する
④.司法が「正しく」行政の裁量判断を審査する
4、司法が、忘れられた人権の原点を再発見すること
人権は、人が人として生まれながらにして持つ権利、誕生から死に至るまで、どんなことが あろうとも、どこにいようとも、一瞬たりとも途切れることなく、切れ目なく保障されるもの――これが人権の原点です。だとしたら、人権は、原発事故が起きようが起きまいと切れ目なく保障されるもの。原発事故が発生したからといって被災者は一瞬たりとも人権を喪失しない。他方、国家も人権保障を実行する義務を一瞬たりとも免れない。これが人権の原点です。しかるに、福島原発事故後の政府の態度は詰る所以下の通りでした。
第1に、被災者に政府の指示通りに行動することを求める。さもないと恩恵も施しもない。
第2に、「人権とは誕生から死に至るまでどんなことがあろうとも、どこにいようとも一瞬たりとも途切れることなく、切れ目なく保障されるもの」この人権の原点は忘れ去られた。
第3に、被災者に恩恵を施すのも終了するのもすべて政府の腹ひとつ、政府の考え次第。
そこで今、「人権の最後の砦」とされる司法に求められることは、人権の原点をもう一度、発見することでした。
5、司法が「正しく」一歩前に出ること
もともと司法には司法消極主義と司法積極主義があり、これは政治・政策不介入主義と人権介入主義と言い換えられる。その意味は、政治・政策の問題はほんらい立法・行政の民主主義的な政治過程を通じて是正・解決すべきものとされ(これが司法消極主義)、他方で、司法は「人権の最後の砦」として出番の時がある(この時が司法積極主義)。
この2つの主義の適切な使い分けを示したのがカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4[1]。これによれば、政治・政策がらみの紛争において司法消極主義が正当化されるのはそれが「民主主義の政治過程」を通じて解決されることが期待されるから。従って、もし「民主主義の政治過程」が機能不全に陥り、人権侵害が発生した場合にはもはや司法消極主義は正当化されず、そこで、司法積極主義によって人権侵害を回復する必要があると。
本件で、福島原発事故の被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」=全面的な「法の欠缺」が発生し、そのズレが立法により解決されないとき、それは「民主主義の政治過程」が機能不全に陥った場合です。そのとき、司法が「人権の最後の砦」として一歩前に出て、「司法積極主義」を実行し、人権侵害を回復することが「正しい」司法の姿です。本裁判は、以上の忘れられた人権の原点と司法が一歩前に出ることを踏まえて、司法が「正しく」法の欠缺を補充することが求められたのです。
6、司法が「正しく」法の欠缺を補充すること
(1)、「法の欠缺」とは現実の紛争事実に対して、法律から具体的な判断基準が直接引き出せない場合のことです。
本件は、福島原発事故の被害の現実と法体系との間に「前例のないズレ・亀裂」が発生し、原発事故の救済に関して全面的な「法の欠缺」状態が発生した。しかも、特定の出来事についての「法の欠缺」ではなく、原発事故の救済についての全面的な「法の欠缺」の発生。つまり、「前例のない法の欠缺」状態が発生したのです。
(2)、本裁判の「前例のない新しさ」とは、この裁判で「前例のない法の欠缺」状態が発生し、この問題を正しく解決することが問われたという意味です。
では、「法の欠缺の正しい解決」は何を意味するか。それは次のことを意味します。
第1に「法の欠缺」は放置できない。つまり、その欠缺を補充する必要があるということ。
それは司法の大原則である「法による裁判」からの帰結です。つまり、裁判は法に基づき、法を適用して行なうもの。そこでもし「法の欠缺」の場合、司法は欠缺を補充して初めて「法による裁判」が実行可能になるからです。
第2に「欠缺の補充」は司法の避けて通れない作業だとしても、司法が裁量で自由にやってよいことではなくて、正しく行なう必要のある「法規範」の問題です。従って、全面的な「法の欠缺」状態が発生した本件では「正しく」法の欠缺を補充する必要があります。
(3)、次の問題は、どういう方法で法の欠缺を補充するのが正しいかです。思うに、我妻栄の学問的出発点となった論文「私法の方法論に関する一考察」に基づいて次のことを実行するのが適切です。
①.まず「現実の社会生活」の実相・実態を探求し、精確に確定すること。
②.次に、法律によって実現すべき理想である現時点の新しい倫理観念を探求し、明らかにすること。
③.①で確定した事実を②の法律の理想に従って処理するにあたり、法律的に構成し直すことを探求し、明らかにすること。
④.その上で、構成し直した法を「欠缺」部分に補充する。
つまり、「欠缺の補充」を正しく実行するためには、事実も理念も法律構成も新しいそれを探求し、明らかにする必要があります。以下、順番に述べます。
(4)、第1が「新しい事実」の探求。それは次の「原発事故」という未曾有の大災害の実相・実態のことです。
ア、被害の桁違いのスケールとして空間的広がりと時間的広がり。
イ.被害の質的深刻さとして、①.内部被ばくや②.セシウム含有不溶性放射性微粒子の再浮遊による健康被害のリスクなど。
(5)、第2が「新しい理念」の探求。それは従来の災害とは質的に異なる、原発事故の大災害に対し被災者の命、健康および居住・暮らしを守るという理念とそれを具体化した以下のことです。
ア、国内法として、①.公害国会で導入された調和条項の排除と生命・健康・暮らしの最優先や②.生命・健康・暮らしを守るため、放射能汚染からの避難。
イ、国際人権法として、自己決定権と健康への権利[2]。
(6)、第3が「新しい法律構成」の探求。それが序列論(上位規範適合解釈)の応用。もともと法体系が体系として全体の秩序が保たれているのは上下関係において下位の法は上位の法に基いて制定されたからであり、それゆえ上位の法に「適合」すると認められているからです(序列論)。従って、法の欠缺が発生した場合にその欠缺を補充するのは、その欠缺部分を制定することにひとしい意味を持ちます。そこで、欠缺の補充のやり方も、制定行為と同様に、その上位の法に「適合」するように補充するのが最も適切です。
そこで問題は、本件で、欠缺の補充において、序列論の上位規範としていかなる法規範を用いるのが正しいかです。原発事故のような大災害に対して被災者の命、健康および居住・暮らしを守るという理念を具体化した法規範は憲法ばかりではなく、それは国際人権法の中に容易に見出せます。本件においてそれは、自己決定権を定めた自由権規約第1条・社会権規約第1条。健康への権利を定めた社会権規約第12条[3]です。
7、結論
以上の通り、本裁判では、原発事故の救済に関する国内法の「法の欠缺」部分は国際人権法の自己決定権や健康への権利の上位規範に基づいて補充される必要があり、それを実行したとき行政(国・自治体)はこの「欠缺が補充」された法規範に沿って果たすべき措置が何であるのかが明らかにされます。その結果、国・自治体が現実に行なった措置がそこで明らかにされた措置から逸脱した違法なものであることが証明されたのです。
以 上
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