以下、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLへの投稿。
その前日、子ども脱被ばく裁判の二審判決言い渡しがあった。言渡し直後、傍聴席から抗議の野次がわきあがり、その罵声を背に、法廷から立ち去ろうとして一瞬、ドアの前で凍りついてしまった石栗裁判長の意気消沈した姿、これほどしょぼくれた姿はこれまで一度も見たことがなかった。ニヤニヤした後ろの右陪席から促され、それで動き出して、ドアの向こうにトボトボ消えていった。この時、彼女は生ける屍になった。それほど意気消沈するんだったら、その前にもっとやれることがあったろう、と(同時にこれは自問自答でもある)。
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柳原です。
昨日の判決言渡し、お疲れ様でした。
井戸さんが早速に判決の解説を書いてくれたので、私も、昨日、喋った即席の感想をもう少し整理して、自分が担当した部分について、感想を書きました。
本日、水戸さんが書いていた石栗評。
> 審理を尽くした風に体裁は整える
> 読めと言われれば、判決要旨は厭わず読み上げる
> 慇懃無礼にも見える丁寧さ
これらはいずれも「許容範囲内」のこと、そこでは精々、猫なで声風に我々に媚すら売る。
しかし、ひとたび「許容範囲」を超えると、手のひらを返したように、情け容赦のなく人権侵害判決に出る。
そのことは、判決に書かれたことだけ読んでいても分からない。つい「審理を尽くした風に体裁は整える」かのようにコロッと騙される。 昨判決の致命傷は、判決で取り上げたことより、むしろ取り上げなかったことの中にこそより深刻な「裁判を受ける権利」の侵害があると感じました。なぜなら、石栗裁判長は、そこでこそ、我々の主張に応答することを意図的に避けて何食わぬ顔をして逃亡したからです。
裁判所の逃避のうちの端的なものが控訴人準備書面(5)(添付しました>こちら)の「行政裁量論」の全面的な主張に対する応答なしの点です。
ここでは理論的な総論として次の3つの大きな主張をしました。
1、羈束行為か裁量行為かの判断
これまでの事例と異なり、本件の最大の特徴は、福島原発事故発生当時、原発事故の救済に関する具体的な法令が「法の欠缺」状態にあったこと。そこで、この法の「欠缺の補充」が要請され、その補充にあたっては「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」という「法体系における序列論」に従って行なう必要がある。
そこで、「欠缺の補充」を上位規範に基づいてなおかつこれに適合するように具体的に行なったとき、本件では法律の上位規範として国際人権法が登場する。すなわち社会権規約をはじめとする国際人権法の「健康に対する権利」に基づいて、原発事故の被災者の救済について「欠缺の補充」を行う必要がある。
その上で、こうした補充した「法の趣旨目的の合理的・目的的解釈をなすことによって」(田中二郎)、当該行政行為が羈束行為か裁量行為かを決すべきである。 ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「羈束行為か否か」にも「法の欠缺」にも「欠缺の補充」にも法律の上位規範である「国際人権法」にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。
2、仮定主張として、仮に「裁量」の余地があるとしても、裁量権の逸脱・濫用があったかどうかは、単に裁量権行使の「結果」に逸脱・濫用があるか否かを判断するだけではなく、その結果を導く行政庁の「判断過程」の各局面において過誤があるか否かを定式化し、逸脱・濫用の有無を判断することつまり「判断過程審査」が不可欠であり、本件でもこの「判断過程審査」に従って、すなわち
行政庁の「判断過程」においていかなる調査を行い、その調査に基づいていかなる事実を認定し、当該案件に適用すべき裁量基準をいかに設定したか(考慮事項・考慮禁止事項など)、そして、その認定事実を裁量基準に当てはめていかに評価したかなどの一連の判断の過程の各局面ごとに過誤があるか否かを吟味し、それらを総合判断するとどうなるかを、準備書面(5)で全面的に展開し主張しました。
ちなみに、行政法学者で元最高裁判事の藤田宙靖が2015年に書いた論文「自由裁量論の諸相—裁量処分の司法審査をめぐって—」日本学士院紀要によれば、この「判断過程審査」は、近時の最高裁の通例であり、次のように高く評価されている判断方法です。
> (判断の当・不当)は行政政策上の問題であって、裁判所はこれに介入することができないにしても、そういった行政判断に至る手続・プロセスが適正なものであったか否かについては、裁判所が判断することが可能なのではないか、といういわゆる「手続的裁量審査論」を展開するものが出て来た。この考え方は、その後行政法学によって広く受け入れられるところとなり、今日では、それを抜きにしては自由裁量論はもはや語れないところとなっている。
> 最高裁もまた、とりわけ近時においては、行政庁が当該処分を行うに当り、その判断の過程において重視すべきでない考慮事項を重視するなど、考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いているというようなことはないか 、また他方で、当然考慮すべき事項を十分に考慮していないといったようなことはないかという視点から検討し、裁量権の逸脱・濫用が無かったかどうかの判断をするのが通例となっているが、これは、学説において一般に「判断過程審査」と名付けられ、今日では広く支持されるところとなっている(>参考)。
↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「判断過程審査」にも「調査義務」にも「考慮事項」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(5)に対する見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。
3、国際人権法の主張も、石栗裁判長が熱心に、何度もその主張を我々に促してきたもので、これについては準備書面(6)(添付しました>こちら)において、基本的な主張を提出し、なおかつ上記1で述べた通り、原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」を補充(穴埋め)するための上位規範として、「健康に対する権利」を保障した社会権規約をはじめとする国際人権法が極めて重要な役割を果たすことも主張してきた。
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しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、国際人権法にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(6)に対し完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。







