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2023年12月19日火曜日

【感想】「人権の最後の砦」から逃げた裁判所:絶対的上告理由「判決の理由不備」である「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』」(23.12.19)

以下、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLへの投稿。
その前日、子ども脱被ばく裁判の二審判決言い渡しがあった。言渡し直後、傍聴席から抗議の野次がわきあがり、その罵声を背に、法廷から立ち去ろうとして一瞬、ドアの前で凍りついてしまった石栗裁判長の意気消沈した姿、これほどしょぼくれた姿はこれまで一度も見たことがなかった。ニヤニヤした後ろの右陪席から促され、それで動き出して、ドアの向こうにトボトボ消えていった。この時、彼女は生ける屍になった。それほど意気消沈するんだったら、その前にもっとやれることがあったろう、と(同時にこれは自問自答でもある)。

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柳原です。

昨日の判決言渡し、お疲れ様でした。
井戸さんが早速に判決の解説を書いてくれたので、私も、昨日、喋った即席の感想をもう少し整理して、自分が担当した部分について、感想を書きました。

本日、水戸さんが書いていた石栗評。
> 審理を尽くした風に体裁は整える
> 読めと言われれば、判決要旨は厭わず読み上げる
> 慇懃無礼にも見える丁寧さ


これらはいずれも「許容範囲内」のこと、そこでは精々、猫なで声風に我々に媚すら売る。
しかし、ひとたび「許容範囲」を超えると、手のひらを返したように、情け容赦のなく人権侵害判決に出る。
そのことは、判決に書かれたことだけ読んでいても分からない。つい「審理を尽くした風に体裁は整える」かのようにコロッと騙される。 昨判決の致命傷は、判決で取り上げたことより、むしろ取り上げなかったことの中にこそより深刻な「裁判を受ける権利」の侵害があると感じました。なぜなら、石栗裁判長は、そこでこそ、我々の主張に応答することを意図的に避けて何食わぬ顔をして逃亡したからです。

裁判所の逃避のうちの端的なものが控訴人準備書面(5)(添付しました>こちら)の「行政裁量論」の全面的な主張に対する応答なしの点です。

ここでは理論的な総論として次の3つの大きな主張をしました。
1、羈束行為か裁量行為かの判断
 これまでの事例と異なり、本件の最大の特徴は、福島原発事故発生当時、原発事故の救済に関する具体的な法令が「法の欠缺」状態にあったこと。そこで、この法の「欠缺の補充」が要請され、その補充にあたっては「当該法律は上位規範に適合するように解釈される必要がある」という「法体系における序列論」に従って行なう必要がある。
そこで、「欠缺の補充」を上位規範に基づいてなおかつこれに適合するように具体的に行なったとき、本件では法律の上位規範として国際人権法が登場する。すなわち社会権規約をはじめとする国際人権法の「健康に対する権利」に基づいて、原発事故の被災者の救済について「欠缺の補充」を行う必要がある。
その上で、こうした補充した「法の趣旨目的の合理的・目的的解釈をなすことによって」(田中二郎)、当該行政行為が羈束行為か裁量行為かを決すべきである。      ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「羈束行為か否か」にも「法の欠缺」にも「欠缺の補充」にも法律の上位規範である「国際人権法」にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

2、仮定主張として、仮に「裁量」の余地があるとしても、裁量権の逸脱・濫用があったかどうかは、単に裁量権行使の「結果」に逸脱・濫用があるか否かを判断するだけではなく、その結果を導く行政庁の「判断過程」の各局面において過誤があるか否かを定式化し、逸脱・濫用の有無を判断することつまり「判断過程審査」が不可欠であり、本件でもこの「判断過程審査」に従って、すなわち
行政庁の「判断過程」においていかなる調査を行い、その調査に基づいていかなる事実を認定し、当該案件に適用すべき裁量基準をいかに設定したか(考慮事項・考慮禁止事項など)、そして、その認定事実を裁量基準に当てはめていかに評価したかなどの一連の判断の過程の各局面ごとに過誤があるか否かを吟味し、それらを総合判断するとどうなるかを、準備書面(5)で全面的に展開し主張しました。
ちなみに、行政法学者で元最高裁判事の藤田宙靖が2015年に書いた論文「自由裁量論の諸相—裁量処分の司法審査をめぐって—」日本学士院紀要によれば、この「判断過程審査」は、近時の最高裁の通例であり、次のように高く評価されている判断方法です。

> (判断の当・不当)は行政政策上の問題であって、裁判所はこれに介入することができないにしても、そういった行政判断に至る手続・プロセスが適正なものであったか否かについては、裁判所が判断することが可能なのではないか、といういわゆる「手続的裁量審査論」を展開するものが出て来た。この考え方は、その後行政法学によって広く受け入れられるところとなり、今日では、それを抜きにしては自由裁量論はもはや語れないところとなっている。
> 最高裁もまた、とりわけ近時においては、行政庁が当該処分を行うに当り、その判断の過程において重視すべきでない考慮事項を重視するなど、考慮した事項に対する評価が明らかに合理性を欠いているというようなことはないか 、また他方で、当然考慮すべき事項を十分に考慮していないといったようなことはないかという視点から検討し、裁量権の逸脱・濫用が無かったかどうかの判断をするのが通例となっているが、これは、学説において一般に「判断過程審査」と名付けられ、今日では広く支持されるところとなっている(>参考)。
     ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、「判断過程審査」にも「調査義務」にも「考慮事項」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(5)に対する見事なまでに完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

3、国際人権法の主張も、石栗裁判長が熱心に、何度もその主張を我々に促してきたもので、これについては準備書面(6)(添付しました>こちら)において、基本的な主張を提出し、なおかつ上記1で述べた通り、原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」を補充(穴埋め)するための上位規範として、「健康に対する権利」を保障した社会権規約をはじめとする国際人権法が極めて重要な役割を果たすことも主張してきた。
     ↑
しかし、控訴判決は、控訴人のこの主張に対し、一言も、国際人権法にも「健康に対する権利」にも一言も応答しなかった。当方の準備書面(6)に対し完璧にスルーしてみせた。
これは「判決に影響を及ぼすべき重要な事項についての『判断の遺脱』以外の何ものでもない。

2023年11月30日木曜日

【参考】仙台高裁の異変&国際人権法の力のレジメ(23.11.30)

 以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLでの投稿。

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柳原です。
今、追出し裁判の進行で、ちょっとした異変が発生しています。
以下、それについての報告とコメントです。
本裁判も、もし上告するんだったら、国際人権法の正義を全面的に、先月末に国際人権法の重要性を認知した最高裁にぶつけたい。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     仙台高裁の異変について&国際人権法の力についてのレジメ
Date:     Thu, 30 Nov 2023 12:50:56 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>

皆さんへ

柳原です。

少し振り返りの投稿です。
福島地裁の裁判官忌避申立のとき、仙台高裁が却下決定を出すや、決定の到着後の1週間後に、福島地裁から判決言渡しの通知がありました。
これが民訴法に違反する行為であることは裁判所も分かってやってるわけですが、

もし今回、それと同じようにやったら、つまり
仙台高裁が却下決定を出したら決定の到着後の1週間後に判決言渡しの通知をするなら、
10月16日に決定が到着したので、10月23日には判決言渡しの通知があってもおかしくない。
事実、仙台高裁の裁判長は一日も早く本件のケリを付けたくて、一発結審を強行したのだから、忌避手続もテキパキとやらないと首尾一貫しない。

ところが、ここに来て、その態度が完全に矛盾、おかしくなった。
強硬派の仙台高裁は急に沈黙に入った。なぜなのか。

考えられる唯一の理由は国際人権法の力、国際世論の圧力です。
なぜなら、先月下旬、最高裁自らが国際人権法の観点から法律の違憲を下しました(性別の取扱いの変更要件の一部を違憲無効とした2023年10月25日最高裁大法廷判決)。
私は、この決定を「令和の黒船」と呼びました。そして、それについて、先週、或る会合で喋る機会を与えて貰ったので、レジメを沿って話しました(参考までに添付します>こちら)。
また、今日の日経の黒田元日銀総裁の私の履歴書最終回でも、彼は、自分の今後のテーマについて国際法とくに国際人権法を挙げ、碧海純一がやったような、法哲学的な根拠付けが必要だと力説しているくらいです。

テーマとして、国際法秩序の法哲学的な基礎を探究しようとも思っている。東京大学の碧海(あおみ)純一教授の下で勉強した時から、ずっと気になっていた。

国内法は各国の憲法のもとに整然とした法秩序がある一方、憲法の根拠は様々だ。自然法、観念的な規範、あるいは現実にない全国民参加の憲法制定会議と、違いがある。

一 方の国際法秩序は主権国家による明文の合意か暗黙の合意に基づく。強固にみえるが、近年は主権国家だけでなく、国民の権利や義務を定めるものが増えた。


「国際人権法が311後の日本社会を変える」という見通しが、ここにも仙台高裁の沈黙に既にハッキリ示されているではないか、というのが私の率直な感想です。

「国際人権法が311後の日本社会を変える」

2023年8月11日金曜日

【振り返り】311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(23.8.11)

 以下は、子ども脱被ばく裁判の弁護団MLでの投稿。

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井戸さんへ

柳原です。

昨日、避難者の追い出し裁判の検討をする中で「法の欠缺」問題の重要性を再発見することがあり、それで、6年前のこちらの裁判の弁護団会議のことが思い出されたので、それについてコメントさせて下さい。

今、デスクトップPCが電源ユニット不具合のため使えず、それで記憶に頼って書いてるのですが、確か2017年の連休前に弁護団会議をやった時、井戸さんが、被告基礎自治体の義務についてという副題の準備書面(32)の草案を書いて説明してくれました。
一通り聞き終わった弁護団は、その書面の衝撃にしばらく声を上げることが出来ずにいて、
おもむろに、私から、「これ、記者会見すべきなんじゃない?」ともっと威張ったらいいんじゃないのという感じで言ったら、謙虚な井戸さんから、笑いながら「いや、いや」とやんわり拒否されました。それが「法の欠缺」を初めて取り上げて、「7千倍の学校環境衛生基準問題」を主張したときのことです。
そのとき、私が井戸さんに、「どうやって、こんな凄いことを思いついたの?」と人の家に土足に踏み込むようなえげつない質問をしたら、「いやいや、『/放射能汚染/防止法』//を提唱している札幌の山本弁護士の本を読んで、ヒントをもらったんだ」とあっさり、種明かしまでしてくれました。
尤も、この時の準備書面(32)は「7千倍」までは主張しておらず、最終準備書面の冒頭で、350倍という主張をしたんですね(1mSVに対して)。

しかし、記者会見こそしなかったものの、一審では準備書面(32)はもとより、その後も最終準備書面で「7千倍の学校環境衛生基準問題」の重要性を思い切り強調して主張したのに対し、一審判決は、この問題に正面から何一つ答えることなく、コソコソというより、堂々と無視して、裁量論の土俵の中で、20mSv基準を裁量の範囲内だとして適法のお墨付きを与えました。

その判決の卑劣さに対する無念さを、判決言渡し直後、井戸さんは次のように吐露しました。(>元情報)

ここでは、原子力法制の価値判断と日本国憲法下の環境法制の価値判断が正面からぶつかります。環境法においては(学校環境衛生基準も同様)は、放射性物質のような閾値(しきいち)のない毒物の環境基準は、生涯その毒物に晒された場合における健康被害が10万人に1人となるように定められています。それが環境法の価値観なのです。これに対し、原子力法制下で一般公衆の被ばく限度とされている「年1ミリシーベルト」は、生涯(70年間)晒されるとICRPによっても10万人中350人ががん死するレベルです。年20ミリシーベルトであれば、なんと10万人中7000人ががん死します。この決定的な価値観の対立の中で、この判決が原子力法制の価値判断を優先させて採用する理由は、全く示されていません。私たちが最終準備書面において力を入れて書いた論点であるにも関わらずです。

それで、今、振り返るに、この時の一審判決のあくどさ、その悪行の論理構成について、もっと徹底的に突詰めるべきだったと。なぜなら、あのときの遠藤裁判長は、裁判官室という楽屋裏で、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」をどうやって始末するか、それで大汗をかきながら、一世一代の猿芝居を演じることにしたからです。
だから、我々としては、このとき、準備書面(32)で初めて指摘した「法の欠缺」状態の発生と、この欠缺の補充作業の必要性と、そして、いかにして補充作業を行うかという補充作業の方法論について、徹底的に解明すべきだった。なぜなら、一審判決は「法の欠缺」問題に脚を踏み入れるのをまるで地雷を踏むかのように徹底して恐れまくり、一歩も近付こうとしなかったからです。なぜなら、ひとたび、裁判所を「法の欠缺」問題に引きづり込んだら、判決のあんな一文、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられている」
なんてアンチョコなロジックで一件落着なぞできなかったはずだからです。

尤も、欠缺の補充において、いかにして補充作業を行うかという問題は一義的に解決できない問題ですが、しかし、少なくとも、そこで、「序列論」に従って、当該法律の上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定を踏まえて補充すべきであるという方法論が展開できますから、
そうすれば、所詮、法律レベルでしかない原子力法制の価値判断が、その上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定に反することは出来ず、その1例として、平等原則を持ち出し、子どもの命、健康を守るという最も重要な人権保障ために、有害物質をめぐる環境衛生基準と放射性物質をめぐる環境衛生基準との間に差別を許容する合理的な理由が認められるか?認められないだろうという議論が可能になります。

遠藤裁判長が判決でいきなり持ち出した裁量問題という土俵にそのまま乗ってしまうのではなく、彼が論じたくなくて逃げ回った学校環境衛生基準をめぐる「法の欠缺」問題こそ、我々がその問題の重要性を正しく掬い上げて、準備書面(32)で初めて明らかにした「欠缺の補充」による正しい解決の必要性を、あれで終りにするのではなく、いま、改めて強調し続けるべきではないかと思ったのです。

まとめ。
「7千倍の学校環境衛生基準問題」が、準備書面(32)で初めて明らかにした、「法の欠缺」の認識→「欠缺の補充」の実践という風に正しく解決された時、それは原発事故の救済に関する全ての法律問題の正しい解決の出発点になる。なぜなら、避難者追出し問題をはじめとした原発事故の救済に関する全ての法律問題は、どれも、原発事故を想定していなかった日本の法体系の「法の欠缺」状態の中にあるところ、与党政府がこの問題を「立法的に解決」しようとしない現在、我々に残された手段として、欠缺の正しい補充によるしかないからですが、その際、今述べた「7千倍の学校環境衛生基準問題」の解決がその輝かしいモデルになるからです。
表題の『311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている』というのはそういう意味です。
それくらい、この問題は決定的に重要なんだと、昨日、再発見した次第です。

2021年3月22日月曜日

【報告】3.19官邸前アクションのスピーチ&3.1福島地裁判決の歴史的意義について(2021.3.20)

 3月19日、脱被ばく実現ネット主催の官邸前アクションに参加、3月1日の子ども脱被ばく裁判の福島地裁判決に対する報告を喋った。以下、その動画。



上記の報告を整理して、上記の福島地裁判決に対する以下の感想を書いた。

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3月1日福島地裁判決に関する原子力ムラの2つの誤算

弁護団 柳原敏夫

311から10年、私たちは今、どこにいる?

確信を持って言えることが1つある。それは――311から10年が経過し、「私たちは今、どこにいるのか?どこに行くのか?」と問うた時、その答えは子ども脱被ばく裁判の中にある、と。

なぜなら、福島原発事故は日本史上最悪の未曾有の過酷事故であり、事故の被ばくにより多くの子ども・市民の命、健康が前代未聞の危機に陥った時、こともあろうに、この事故発生の張本人の1人である日本政府は事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、その結果、多くの子ども・市民に無用な被ばくをさせ、未曾有の危機を招いた。この国家の犯罪の法的責任を真正面から問うた裁判が子ども脱被ばく裁判だからである。言い換えると、311後に出現した、
・子どもの命・人権を守るはずの文科省が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害され、
・密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じている。狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされる、
「異常が正常とされ、正常が風評被害、異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとした、原発事故に関する「世界で最初の裁判」だからである。

原子力ムラの2つの誤算

この「世界で最初の裁判」の一審判決(以下、単に「一審判決」という)が3月1日、福島地裁であった。結果は原告の全面敗訴。だが、そこには原子力ムラにとって大きな誤算が2つ生じた。  

誤算の第1が判決の理由づけ。日本の支配者の古くからの教え「百姓は死なないように生きないように」によれば、正しい敗訴判決とは「一方で、原告が矛先を収めるようにご褒美を与えて適当になだめすかし、他方で、しょうがないかと諦めるようにチンプンカンプな理由で原告をチョロまかす」ことにある。ところが、今回の判決は第1に、原告を「適当になだめすかす」ようなご褒美が一つもない!その上、チンプンカンプで原告をチョロまかす理由になっていない!「子どもの命、健康を守って欲しい」という原告のささやかな願いを託した原告主張をことごとく、これでもかこれでもかと完膚なきまでに完璧に蹴っ飛ばし、真っ向から否定してしまった。原告をリングの底に思い切り叩きのめし、二度と再挑戦できないように蹴散らしてしまった。その判決理由は一言で言って「理不尽の極み」だった(その中身は後述)。これがそして、次の誤算を招いた。
誤算の第2が控訴手続き。2014年8月提訴以来既に6年半の歳月が流れ、この間、「原発事故は終わった。東京オリンピックを復興のシンボルに」といったまことの風評被害が吹き荒れる中で、提訴当時の決意を維持持続することは困難を極め、それに追い討ちをかける3月1日の原告全面敗訴の過酷判決という逆風で、控訴は原告にとって大きな試練だった。ところが、この逆境の中、控訴期限の15日に行政訴訟6名、国賠訴訟125名の原告が控訴した。311から10年も経った今、約8割の原告が控訴したことは「原発事故は終わっていない」ことの何よりの証であり、原子力ムラにとって大誤算である。

この誤算をもたらした最大の原因は「理不尽の極み」判決にある。「子どもの命、健康を守って欲しい」という原告のささやかな願いに頭から冷や水をかけ、散々に蹴散らした「理不尽の極み」判決にもし異議申立しなかったら、「子どもの命、健康を守って欲しい」という願いを自らの手で葬り去ってしまうことになる。そのような理不尽の共犯者になることだけは、普段はこの裁判のことを忘れていたとしても、どんなことがあっても出来ない、許せない、と。「理不尽の極み」判決が原告に提訴の原点を鮮やかに呼び覚ましてくれ、再び、原告の心を突き動かし、異議申立という新たな行動を引き起こした。

理不尽の極めつけ――7千倍の学校環境衛生基準問題

 一審判決の理不尽の極めつけが7千倍の学校環境衛生基準。私たちの先人は、半世紀前、深刻な公害で苦しむ日本の子ども・市民の命・健康を守るため、コロナによるマスク着用どころか、ガスマスク着用が必要になると警鐘を鳴らし[1]、その救済に尽力した結果、世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として、その毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というものだった。ところが、現在に至るまで日本政府はサポタージュして放射性物質について学校環境衛生基準を定めようとしない。この法の抜け穴に対し、原告は本裁判の最重要論点として、放射性物質についても学校環境衛生基準が定める他の毒物と同等の基準つまり「10万人に1人が健康被害」を適用すべきと当然のことを主張したが、一審判決はこれを真っ向から否定、生涯晒されると「10万人中7000人ががん死」を意味する年20ミリシーベルトで問題ないと判示した、他の毒物と比較し、安全基準の7千倍の引き上げがなぜ正当化されるのか、その理由を一言も述べないまま。半世紀前、宇井純、田尻宗昭、戒能通孝東京都公害研究所所長、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に勝ち取った環境基準という先人の努力の賜物を、311後の日本政府と一審判決は放射性物質という毒物についてチャラにし、7千倍引き上げという安全基準の世界最貧民国に転落した。このままでは宇井純ら無数の先人たちの努力は浮かばれない。

不都合な真実にはスルー――科学的知見から逸脱した山下俊一発言問題
2011年に提訴したふくしま集団疎開裁判で仙台高裁にただ一人踏みとどまった原告のお母さんに「放射能の安全基準をどのように評価しているか」と質問した時、彼女は「311事故前の基準と比べて評価している」と答えた。事故前との比較、これが本裁判でも、事故直後の福島での山下俊一発言が科学的知見から逸脱したものかどうかを照らし出す鏡だった。
例えば、山下氏は3月20日の記者会見で「この数値(毎時20マイクロシーベルト)で安定ヨウ素剤を今すぐ服用する必要はありません」と断言した。しかし、311前、チェルノブイリ事故直後、ソ連では安定ヨウ素剤は配布されず、そのため多くの子どもたちがのちに甲状腺がん等の病気になったのに対し、隣国ポーランドでは直ちに 安定ヨウ素剤を配布したため、子どもの甲状腺がんの発生はゼロだった事実を指摘したのは山下俊一氏その人である[2]。
また、山下氏は5月3日二本松市講演で、「何度もお話しますように、100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。」と安全性を断言した。しかし、311前、山下氏は講演で、チェルノブイリ事故について、「放射線降下物の影響により‥‥半減期の長いセシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される。」[3]、医療被ばくについて、「主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません」[4]と危惧、リスクをを指摘したのは山下俊一氏その人である。

 原告は、山下発言と311前の発言を「比較した時、その正反対とも言うべき矛盾した内容に、果して同一人物の発言なのかといぶかざるを得ない」と子どもでも分かるほど明快な矛盾を突いた。

 その上で、原告は、山下発言の評価方法について、現在の定説であるテクスト論[5]に基づき《山下発言の意味を判定するのは語り手の山下氏ではなく、放射能の危険性について専門的知識を持たない聞き手の一般聴衆である。一般聴衆にとって切実なことは、自分が知りたいと思っている問題について山下氏がどう発言したかという個別具体的な発言であって、山下講演の全体的な評価などではない。山下講演の個々の発言中に「一つでも不合理な発言」を聞いた一般市民がそこから放射線健康リスクについて「不合理な結論」を引き出し、「すっかり安心して」それまで抱いていた放射能に対する警戒心を解いてしまう恐れがあったかどうかがここで問題なのである》と常識的見解を主張した。

 しかし、一審判決は一方で、山下発言の評価方法に関する原告の常識的な主張を真っ向から否定、またしてもその理由を一言も明らかにしないまま。他方で、山下発言と311前の発言との矛盾について、真っ向から否定するどころか、ただの一言も触れずコソドロのようスルーして蹴っ飛ばした。これは真っ向から否定する勇気すら持てなかったからである。こんないい加減なやり方で、山下発言を「科学的知見を一般の参加者向けに平易に説明したもの」[6]と全面的に擁護した。あたかも独裁者が自国の民主主義を云々するようなもので、「理不尽の極み」以外に表現が見つからない。

「理不尽の極み」判決は311後の日本社会を写し出す鏡

とはいえ、裁判所は決して自ら望んで、あのような理不尽満載の判決を書いたのではなかった。放射性物質に関する環境基準の抜け穴問題ひとつ取っても、もし原告があそこまで厳しく追及しなければ、一審判決も適当にお茶を濁したかったに違いないが、原告の峻烈な追求を前にその余地はなかった。この意味で、「理不尽の極み」判決は311後の日本政府の対応の問題全てと正面から向き合い、その理不尽さを余すところなく解明しようと努力した原告の追及がもたらした帰結であった。この意味で、我々が手にした「理不尽の極み」判決は311後の日本社会を写し出す鏡である。

歴史の訓えによれば、理不尽が凝縮された出来事が人々の心に共有された時、それは社会に途方もない地殻変動を引き起こす。1987年6月の韓国の民主化運動も、ひとりの学生の拷問死という理不尽な出来事が引き金であり、 2011年春の中東の民主化運動も、ひとりの露天商の若者の抗議死という理不尽な出来事が引き金だった。この意味で、原告が6年半かけて手に入れた「理不尽の極み」判決もまた地殻変動を引き起こす可能性を秘めている。「理不尽の極み」判決を手に入れるためにこの間、数え切れないほどの人々の参加、協力、応援があった。この尽力を無駄にすることのないよう、世の人々にこの「理不尽の極み」判決を示して、「この酷い判決が311後の私たち日本社会を写し出す鏡なんですよ」と訴え、理不尽を共有していきたい。その共有の積み重ねの中から未来の「地殻変動」を引き起こすために、ささやかでも、これからも奮闘したいと思う。

以上が、私がこの判決から引き出した歴史的意義である。

                                 (2021.3.20)



[1] 1970年7月25日朝日新聞(夕)「亜硫酸ガスの危険警告 10年後には5倍 ガスマスクが必要に」

[2]論文「放射線の光と影:世界保健機関の戦略」2009年3月。537頁左段1行目以下。

[3] 講演「被爆体験を踏まえた我が国の役割」3頁(2000年)

[4] 上記論文543頁左段。

[5] ある作品の意味は何かついて、作品の作者にその答えがあるのではなく、読む側、つまり読者がその解釈の答えを握っているという考え方。テキスト論、読者論ともいう。

[6] 判決要旨15頁。

 

2021年3月16日火曜日

【速報4】判決直後アクション:子ども脱被ばく裁判の行政訴訟6名、国賠訴訟125名の原告が異議申立(控訴)

 3月1日に原告の全面敗訴判決が言渡された子ども脱被ばく裁判、3月15日、福島地裁に控訴状を提出し、控訴。以下、当日の報告。
                      

                     控訴状提出に集まった原告と代理人


3月前半は「瞬く間」に過ぎてしまった――この日、控訴手続に参加した原告、代理人、支援者全員の率直な感想でした。判決言渡しがあった3月1日から控訴期限の15日まで無我夢中だったからです。

8日の弁護団から原告団に対する一審判決の説明会(オンライン)で、参加した原告の方々は全員控訴を表明し、11日の「控訴の声明」の通り、控訴が正式に決定しました。とはいえ、この日の参加した原告はわずかであり、他方、控訴は各原告自身が決定する事柄であるので、いったい、どれくらいの原告の方々が控訴するのか未知数でした。

そのため、この8日から15日の提出まで、各原告への控訴の打診を行い、文字通り無我夢中の日々でした。2014年8月提訴以来6年半の年月が流れ、「原発事故は終わった。東京オリンピックを復興のシンボルに」といったまことの風評被害が吹き荒れ、それに追い討ちをかける1日の原告全面敗訴の過酷判決という逆境の中で、控訴は多くの原告の人たちにとって大変な試練だったはずです。しかし、この逆境にもかかわらず、15日には、行政訴訟6名、国賠訴訟125名の原告の方々が控訴しました。この人たちの存在は弁護団、支援団を鼓舞し、逆流に真正面から立ち向かおうと決意した原告の人たちに負けないように、私たちに第2ラウンドの戦いに立ち向かう決意を引き出してくれました。

3月15日から50日後(5月4日)が控訴審における私たちの所信表明ともいうべき控訴理由書の提出期限です。次は、一審判決のまちがい、おかしな点をみんなで検討する番です。裸の王様を笑うのが子どもです。その子どもが大笑いできるくらい「一審判決のまちがい、おかしな点」を解き明かして、大人も子どもも共有したい。そして、その集大成として控訴理由書が完成するように、これから「みんなで作る控訴理由書」の取り組みに励みたいと思う。

以下は、控訴状と
この控訴状提出に集まった原告、代理人、支援者による裁判所前の集会の動画。



             集会後、控訴状提出のため裁判所に向かう原告と代理人。


2021年3月5日金曜日

【速報3】山下俊一氏を守るため山下氏の教え「放射線、正しく恐れよう」に背くほかなかった判決(2012.3.3)

東京電力の社長だった清水正孝氏は311事故直後、出張先から東京本社に戻るため自衛隊機に搭乗しようとして拒否された。これに対し、山下俊一氏は、国賓扱い並みに、自衛隊機に飛び乗り(もっとも、弟子の高村昇氏は搭乗適わず、テクテク電車を乗り継いでの福島入りした)、3月18日、長崎から福島入りした。その山下俊一氏の福島デビューは翌19日の記者会見だ(以下、高村氏と並ぶ山下氏)。

情報オンチの原告代理人(柳原)が山下俊一氏の名前を初めて知ったのは、それから3日後の4月22日の日経新聞全国版。放射線「正しく恐れよう」と訴える、以下の記事だった(記事全文->こちら)。


311直後から、マスコミに登場した東大、京大の原子力ムラとおぼしき学者たちの、腰の引けた意味不明のメッセージに不信を抱き、辟易していた中、この単純明快なメッセージに鮮烈な印象を受けたのは私だけではなかった気がする。

しかし、最大の問題は次にあった---どうしたら「正しく恐れる」ことが認識できるのか。
その基本原理は先入観、固定観念を排除すること。言い換えれば「偶像崇拝の禁止」。長崎の被ばく二世という経歴から、即、信頼できるとは限らない。検証・再吟味が不可欠だった。
私にとって、その検証・再吟味の最も有力な方法が、カントが言った次の「視差(ズレ)」の中で考えること、つまり2つの異なった立場からの考察を比較することだった。

《さきに、私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した。今私は自分を自分のではない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もひそかな動機もろとも、他人の視点から考察する。
 両者の考察の比較は確かに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段である。
》(カント「視霊者の夢」)

それは、放射能という《見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒》(アーネスト・スターングラス博士)と言われる最も困難で、厄介な物質の危険性を理解する上で、欺瞞を避け、正しく認識するために決定的に重要な方法に思えた。

例えば、それは次の3つの方法として具体化された。
①.時間的な視差(3.11以前と以後との対比など)。
②.場所的な視差(チェルノブイリと福島との対比など)
③.人的な視差(「政府要人・自治体要人・原子力ムラ住民とその家族」と一般市民との対比など) 

放射能は《見えない、臭わない、味もしない》厄介な毒だが、他方で、人間界にはない、すこぶる単純明快な性質を持っている。それが、放射能には御用学者やマスコミのマインドコントロールがいっさい通用しないこと、放射能は収束宣言を出す政府要人にも、安全神話を振りまく御用学者にも、貧富の差にもかかわらず差別せずに情け容赦なく人々にひとしく被ばくを浴びせることだった。
この無差別被ばくの性質の結果、政府要人や自治体の首長、御用学者が一般市民向けに口では「屋内退避で十分」「自主避難の必要はない」と言っている時でも、現実に、彼ら自身と家族の避難をどのように取り扱っているか、それさえ見れば避難の必要性についての真実が判明する(③.人的な視差)。311直後、一般市民は口にこそ出さねど、政府要人や自治体の首長、御用学者とその家族の動静を注視していた。

この「視差(ズレ)」の中で考える方法が最も威力を発揮したのが、311後の福島での山下俊一氏の発言の評価である。なぜなら、彼は311以前から放射能の危険について、何度も発言をしてきたからで、そこから、311以前の山下発言と311後の山下発言を比較し、その視差(ズレ)の吟味を通じ、山下発言について欺瞞を避け正しく認識することが可能になるからだ。

そこで、この点について、子ども脱被ばく裁判で原告は、次の通り、主張した(アンダーラインは原告代理人)。
1、100ミリシーベルト以下の被ばくの危険性について
 これについて、山下氏は、311前には次の通り、発言していた(原告準備書面(5)42~43頁)。

講演・論文

内容

①.「被爆体験を踏まえた我が国の役割」3頁(2000年)(甲C33)

4.今後の展望
チェルノブイリ周辺住民の事故による直接外部被ばく線量は低く、白血病などの血液障害は発生していないが、放射線降下物の影響により、放射性ヨードなど による急性内部被ばくや、半減期の長いセシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される。現在、特に小児甲状腺がんが注目されている が、今後、青年から成人の甲状腺がんの増加や、他の乳がんや肺がんの発生頻度増加が懸念されている。

②.「放射線の光と影」543頁左段(2009年)(甲C34)

主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません‥‥

③.「放射能から子どもの未来を守る」9~10頁

【児玉龍彦東京大学アイソトープ総合センター長(以下、児玉教授という)による原発事故以前の山下アドバイザー発言の紹介】

山下氏は、福島原発事故以前は、学会で、放射能を使うPETやCT検査の医療被曝については、2ミリシーベルト程度の自然放射線と同じレベルについても、「医療被曝の増加が懸念される」と述べ(※)、学問的には危険性を認め対応を勧めている。

(※)「正しく怖がる放射能の話」(長崎文献社)、「長崎醫學會雑誌」(長崎大学) 81特集号

ところが、311後に山下氏は、次のような発言をするに至った。

《何度もお話しますように100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。》(5月3日二本松市講演。特集「告発された医師」〔甲C9〕23頁右段下から18行目以下) 

311前と後のこれらの発言を比較した時、その正反対とも言うべき内容に対し、一体どうやったら、両者の整合性がつけられるのか理解できないと主張した。正常な頭で考えたら、山下俊一氏は2人いる(注:もう1人は田中俊一氏という意味ではない)のではないかと疑わざるを得ない。その積りで、原告代理人はこう主張した。

《(両者の発言を)比較した時、その正反対とも言うべき矛盾した内容に、果して同一人物の発言なのかといぶかざるを得ない程である。》(原告準備書面(60)12頁)

しかし、判決はこれに対して、一言も触れなかった。というより触れらなかった。もし触れようものなら、山下氏を救うロジックを見出すことは不可能だと分かっていたから。そこで、「三十六計逃げるに如かず」の格言に従い、だんまりを決め込んだ。

これは次の安定ヨウ素剤の服用についても同じだった。

2、安定ヨウ素剤の服用
 これについて、山下氏は、311前には次の通り発言し、すばやく安定ヨウ素剤を飲ませたポーランド政府の対応を推奨していた。

日時・場所

発言

①.甲C34「放射線の光と影」537頁左段1行目

ポーランドにも、同じように放射性降下物が降り注ぎましたが、環境モニタリングの成果を生かし、安定ヨウ素剤、すなわち、あらかじめ甲状腺を放射性ヨウ素からブロックするヨウ素をすばやく飲ませたために、その後、小児甲状腺がんの発症はゼロです。

②、甲C33「被爆体験を踏まえた我が国の役割」ラスト

最後に、チェルノブイリの教訓を過去のものとすることなく、「転ばぬ先の杖」としての守りの科学の重要性を普段から認識する必要がある。

ところが、311後に山下氏は、次のような発言をするに至った。

日時・場所

発言

①.2011年3月20日記者会見(甲C第9号証)

【安定ヨウ素剤の配布の有無について】

この数値(毎時20マイクロシーベルト)で安定ヨウ素剤を今すぐ服用する必要はありません。


311前と後のこれらの発言を比較した時、ここでも、その正反対とも言うべき内容に対し、一体どうやったら、両者の整合性がつけられるのか理解できないと主張した。正常な頭で考えたら、やはり、山下俊一氏は311前とは別人の山下氏が2人いるとしか思えない。

その上、311前と後の山下発言の文脈・状況の違いについて次の点が重要だった。311前の発言は、山下氏にとって所詮、他国の話、彼自身の利害に殆ど関係のない話であり、中立公正な話をする上で別段何の障害もなかった。彼は安んじて、真実を、100ミリシーベルト以下の真実やポーランドの真実を語ることができたのである。しかし、311後は状況が激変した。彼にとってのボスであり、最大の関心事である日本政府の存亡がかかっている。バイアスがかかるのは当然である。このように、山下氏の置かれた状況を理解して、311前と後の彼の発言を比較し、読み解けば、おのずと評価が下されるはずだった。

しかし、判決はまたしても一言も触れなかった。ここでも、触れらなかった。もし触れようものなら、山下氏を救うロジックを見出すことは不可能だと分かっていたから。ここでも、「三十六計逃げるに如かず」の格言通り、だんまりを決め込んだ。

以上の通り、311直後に山下語録として日経新聞が紹介した《放射線「正しくおそれよ」》を放射線に正しく適用した《311前と後の山下発言の比較・検討》という具体的な方法を、山下発言に適用すれば、山下発言の正しい評価が可能になった。しかし、それでは山下氏を救うことはできない。そう悟った裁判所は、この方法を適用することを無視し、黙殺した。

つまり、裁判所は、山下氏を救うために、《放射線「正しくおそれよ」》という山下氏の教えに背いたのである。
もちろん、裁判所を背信的偽善者に陥れた元凶は山下氏である。
《放射線「正しくおそれよ」》を受けのいいキャッチコピーとしてしか考えず、福島の人たちにとって無名の山下氏の311前の発言なぞ福島の人たちは誰も知らないことをこれ幸いとばかりに、311後に、放射能の具体的な話について、手のひらを返したように311前とは正反対の安全論をぶちあげ、振りまいたのである。これが犯罪と言わずに何と言おうか。この欺瞞的な山下発言を救済するために、裁判所としては《311前と後の山下発言の比較・検討》を無視、黙殺するほかなかった。しかし、その結果、最大の被害者は被ばくした福島の子どもたちである。裁判所もまた、その責任が永久戦犯として歴史に刻まれる。

2021年3月3日水曜日

【速報2】311直後の山下俊一氏の発言を「科学的知見を一般の参加者向けに平易に説明したもの」と認定した判決(2021.3.2)

               311直後に長崎から福島入りした山下俊一氏

 3.11から12日目の記者会見。「僕たちはがんになりません、というのは保証できますか?」という外国人記者の質問に、
  「『絶対安心』ということは誰も言えない。しかし、『安心して下さい』とお願いできる。ここは大事です!」と答える山下俊一氏(映画'A2-B-C'(予告編)から)。

現在、 子ども脱被ばく裁判の弁護団は、3月1日に言渡された判決の詳細な検討の途中です。さしあたり、311直後の福島での山下俊一氏の発言(以下、山下発言と略称)問題の担当の原告代理人(柳原)から、山下発言に関する判決の箇所で印象に残ったことをコメントしました。 

◎山下発言に関する判決要旨の該当部分(2頁)->こちら

◎山下発言に関する判決本文の該当部分(12頁)->こちら

◎山下発言に関する原告主張->解説と主張書面(準備書面(5)の山下発言問題部分 準備書面(60))

判決言渡しのあと配布された判決要旨に、山下発言を、
《科学的知見を一般の参加者向けに平易に説明したもの》(判決要旨15頁)
と評価したのを読み、一体どうやったらそんな手品みたいなことができるのか、ビックリ仰天した。

そのあと、判決の本文を一読して気がついたことは、100ミリシーベルト以下の健康影響に関する山下発言(判決では本件山下発言①)について、裁判の審理の中で原告は、
2011年5月3日二本松市講演で、山下氏が
《何度もお話しますように、100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。》
と発言したことの問題を取り上げ、それが科学的知見から逸脱していると主張した(準備書面(60)12頁)。
これに対し、判決は、この山下発言に関する原告主張を正確に引用せず、、
《100ミリシーベルト/年以下までの被ばくであれば発がんリスクはない旨の発言(5月3日二本松市講演)》(194頁(1))
とぼかした上で、さらに、原告が主張するこの山下発言を次のように修正して取り上げた。
《100ミリシーベルト以下では明らかな発ガンリスクは起こりません。分からないんですね》(197頁(5)ア)
    ↓
このように事実認定して、そこから、山下氏は、「100ミリシーベルト以下で健康影響があることは実証されていない」という見解に立っていると評価した(199頁(1)イ)。
    ↑
しかし、彼が二本松市で喋った内容はこれとはちがう。原告が主張したように、
《何度もお話しますように、100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。》

つまり、冒頭で「何度もお話しますように」と強調し、その上で言ったことは、
「100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。」
です。つまり、山下氏は「100ミリシーベルト以下では健康影響がないことが実証されている」という見解を明確に述べた。
しかし、裁判所は、事実認定にあたって、原告が引用した主張をぼかした上で、現実の山下発言を用意周到に、冒頭の「何度もお話しますように」を削り、その上で「明らかに発ガンリスクは起こりません。」という発言を「明らかな発ガンリスクは起こりません。」と念入りに書き換えた。
「明らかに発ガンリスクは起こりません。」と「明らかな発ガンリスクは起こりません。」の違いは明らか「に」と明らか「な」の一文字。しかし、意味はまったくちがってくる。それは「明らか」を副詞として使うのか、形容詞として使うのかの違いだ。
「明らか」を副詞として使う「明らかに発ガンリスクは起こりません。」は「発ガンリスクがないことが明らかである」という意味。しかし、「明らか」を形容詞として使う、「明らかな発ガンリスクは起こりません」だと、「明らかな発ガンリスクというものはない。しかし、《明らか》とは言えない程度の発ガンリスクについては分からない」という意味になり、ここから裁判所が認定しようと思っていた、山下氏は「100ミリシーベルト以下で健康影響があることは実証されていない」という見解に立っていることが引き出せる。
    ↑
だからこそ、この「明らかに」と「明らかな」の1文字のまちがいの重要性について、原告は審理の中で、裁判所に指摘していた。ゆめゆめ間違えることのないように、と(※)。
にもかかわらず、裁判所は、この警告を無視した。なぜなら、この点を正しく理解すると、自分が引き出したい評価ができなくなるから。そこで、この不都合な真実を原告の警告を無視して、ねじ曲げた。
これが判決のやり方だ。つまり、事実の認定を、自分が取りたい評価、結論を引き出せるように好きなように捻じ曲げ、捏造する。
「山下君、君がどんな暴言を吐こうが、どんなことをしようが、ボクたちが何としてでも、君を守ってあげるからね」と山下俊一氏の完璧なボディーガードを演じるために、ここまで手を染めるのか。これが判決に対するの私の第1印象だ。

(※)原告は、山下氏が二本松市で「明らかな発ガンリスクは起こりません」とは発言していないことを裁判所が正しく理解するように、2018年10月5日の準備書面(60)で、次のように注意喚起した。

《2015年9月7日付原告準備書面(5)第5に以下の誤記があったので、訂正する(下線部分が訂正箇所)。なお、2番目(40頁13行目)の訂正は、 なお、2番目(40頁13行目)の訂正は、山下アドバイザーの講演動画(7)を再生して、彼の発言内容を確認したものである。 》

注(7) OurPlanet-TV提供の動画の前半7分30秒)

◆前半(講演)


 
◆後半(質疑応答)